多感作用と誰が為の共感

萊草唳の創作雑記

其の猫はただ一度限りの生を生きた

我輩は猫である
名前というものを知らない
否、名前というものがあってはならないのだ
或る猫はこう言うのだ
「帰る場所があるというのは良いものだ、君はなんとも可哀想なもんだね
日がな一日其処で暮らさずとも頃合いを見計らって戻れば家の主に歓迎されるのだ。得する事はあっても損をするという事はない。」
私は答えなかった。
その猫はやがて天寿を全うし、主人の元で手厚く葬られる事となったらしい
なんとも幸せな猫である
また或る猫はこう言ったのだった
「私はもうあんなところには戻りたくはないのだ
何か気に入らない事があれば、物を投げつけてきたり
日がな一日怒鳴り声が聞こえて安らぐ事はないのに、其処に戻らないとまた食べる物が無くて戻って来た時に怒鳴られるのだ
何故彼処にいるべきなのか分からない。
君の事が羨ましくて仕方ない
自由に生きれたら、と思うんだが
どうかね君の暮らしは」
私は答える事が出来なかった
その猫はやがて痩せ細っていき、日がな一日を過ごしていたとある場所で其の生を終えたという
ただ最期が安らかである事を願うばかりである
自由に外出を許されていたのは幸いであった
これまでたくさんの死を目の当たりにしてきたが死というものはいつまで経っても分からないものである
路傍に横たわる骸は、それがかつて生きていたものだと気づくには遅すぎて、そして長い年月の間に痕跡もなくなって遂には土へと還るのだ
一つだけ分かるのは
ただ死というものはそれを目撃するものが居る事によって謂わば完成するというのではないのだろうか
痕跡から、記憶から、思い出し語り尽くす事の出来ない様々な事象から漏れ出す透明な沈黙が
やがて一つの物語となって一人歩き始めるのである
零れ落ちた忘却の残滓によって次第にその実像を曖昧で、酷く不明瞭なものへと形を変える前に
語り尽くさなければならないのである
流した悲しみがすっかり洗い流されるまで
彼方に押し込めた痛みがやがてふとある時に生々しい記憶の洪水を伴って息を吹き返すとき
それを止める手立てはないように、語られなければいけない事は確かにあるのである
やがて私の身体も朽ちるのだろう
場所はここがいいに違いない、
いや、長年街を歩き続けてここがいいに違いないと思い立ったのだ
見つけてくれるのなら人間が良い、
それでは、さようなら