瓦乍籠の詭弁録

萊草唳の創作雑記

個人的見解を含む感情のスケール展開

喜怒哀楽の4つの形態と正負のカテゴリー

喜 正 談笑 負 嘲笑 

怒 正 躾  負 暴力(加害意識)

哀 正 哀憫 負 被害者意識

楽 正 安堵  負 怠惰  

 

(1)感情を引き起こす脳科学的メカニズム、

(2)感情の社会的メカニズム、

(3)個人の感情を形作る感情の個体発達、

(4)種に普遍的な感情を形作った進化的機能である。

前二者は至近要因、後二者は究極要因と呼ばれる。

 

フェイススケール的(自己完結型) 

非言語コミュニケーションの中でも重要な位置を占めるうえ、他者の介在が必ず存在する。 

 

形式ばってる→中身が伴ってないと言い張る。

(単なる欲求不満)

動きについてのみに言及→感情的背景の理解に乏しい。

不躾なことを言う男性(名誉男性)

言わない、言えない(弱者男性)

→流されている訳では無い。負の怒りの感情を出してないだけ。社会的通念の変化により、加害行為に対する意識が高まった、侵食する性への意識

曖昧になる社会的性(ジェンダー論)への意識。

女性:加害意識の高まり

男性:加害意識の抑制

嘘つきほど感情的表現が豊か

大げさに言うと誤魔化せるが、感情的な欠落を却って助長させる。

意見は汎く求める、適用範囲は狭める。

 

 

 

 

 

Stainless Border

もう何度見た世界線
わかりあえない境界線
捨てられた私たちの体温
その温もりの在処を
あなたは知っていましたか?
私の心は錆だらけ
心にヒビが入ったような関係性
それを強いられることへの閉塞感
煤けた心に触れる度
私の視界はまっくろけ
もうどうしようもない関係性
思い出せない輪郭線
捨て去った昔の記憶
その温もりの在処を
あなたは知っていましたか?
私の心は冷たく
心にはぽっかりと空洞が
それが埋まらないことへの焦燥感
煤けた心は識っている
私は視界を奪われた
トンネルは知っている
細く長い暗い道
覚束ない足取りと
歩を進める度、目が眩む
抜けても抜けても暗い道
私はただ叫ぶ事しか出来なかった
オレンジの光だ
私を嘲笑うかのよう
ノイズが駆け巡る底の底
私は眠りにつく前
めいいっぱいの命乞いをしました。
なんどきかの微睡みのあと
私は私はただ日々を暮らしています。


それは灼けるような太陽だった
錆びた釘のようになった私たちは
砂だらけの大地に横たわっている
枯れることのない躰は
朽ちることの意味を知っている
ああ、これは生命を忘れた
ヒトナラザルモノたち
軈て意味は置き換わる
朽ちた身体は大地を割って
風をなぞる砂の器が私達を
すっかり覆い尽くしてしまうとき
ある日雨が降ったのだ
空は泣いている
地は血を吸い込み
智を喪った、それは棄民の邦だった。
棄民は智の価値を識っているが
血の味に慣れてしまった
ヒトナラザルモノタチが云う、
自分たちの為の犠牲の噺については分からない
分かりようのない深い深い溝があるのだと思い知った。
太陽はその価値の振り分け方を知らないという
だけれども、その欲望の分だけ人を灼くのだと言う。
それは本来灼くべきではなかった、
焚べるべきでなかった生命の分だけ焼かれるのだという
比べるべくもない生命の価値を自分の方に多く振り分けすぎてしまったからなのだと云う。
当然だ。生命そのものに価値などないのだから。
この世に生を受けた意味を考えるべくもなく
ただ其処に在ることを強いられるだけで強い苦難を強いられる人達が、人以外でも当然そうなのだから。
ましてや生命の価値という言葉では語るべきではない地獄が其処には確かに存在するというのに
それは自分には関係ないから、
嗚呼それこそが、
今最も浅ましい原罪であると私は思うのだ。
私の心は火に焚べられている。
全く以て罪の意識のない、自覚のない
他人行儀な、不特定多数の無知蒙昧の悪意だ。
多数あるから、自分の罪は軽いと云う。それこそが、止め処無い悪意の源流であることに無自覚なのだ。
もうこれを止める手立てはないのだが、
私はもう、このどうしようもない悪意に対してなんとも思わなくなってしまったので
ただ、のんべんだらりと日々を暮らすことに費やそうと思うのだった。

 

 

クィアのまなざし

自己を苛む身体への違和感

それはやがて、身体の枠組みを越えて性別のカテゴリーを作り変えんと欲するまでに肥大化する。

自己に対する奇妙な感覚、それは決して他者を侵害するものであってはならない。

自分の身体を作り変え、名前を変え、戸籍を変える権利は既にあるのだから。

善悪の物差しは他者の眼差しあってこそ成立するものであり、客観性によって担保された秩序ある善悪の枠組みの中に収まりきらない自己が対岸から、そのさまをきっと見つめている。眼差しは怒りを伴うか、憐憫の情を伴うかで異なってくるだろう。

その怒りが自己に向かう時は正義という

その憐憫の情が自己に向かう時、原罪意識となる。本来はそうであるべきなのだ。

他者のまなざしによって成立する世界において、判断の正しさというのは、感情の色を伴わないものである。

やがて自己へ向けた怒りの眼差しが、憐憫の情が我が身を苛むとき、その矛先は他者へと向かう。

剥き出しになってしまった情は智を捨て去り、血を求め、色を帯びる、他者への支配欲や情欲が綯い交ぜとなった…すなわち色欲である。その価値感覚は、他者依存的、と言っても主観に支配された他者に依存的な態度であり、単に視覚情報的な世界観によって成立しているに過ぎない。手当たり次第に周りを頼り、周りの人の表情から敵味方を弁別し、極端に浅い思考からくる自己欺瞞にも似た思い上がり、自分は相手を支配しているという根拠のない思い込みによって成り立つ軽薄さ。

倫理や道徳観は、他人の権利を尊重する意識によって醸成されるべきである。

ことのあらましは著述されなければならない、醜い意識ごとぜんぶ。

どちらでもないというのは、曖昧であることを余儀なくされているのではなく、これ以上考えたくないという思考の放棄である。

奇妙だな、というさわりだけで考えるのを止めてしまっていることに対する弁明すら存在しない。

その違和感の所在地を明らかにしないまま、強い言説に流され、つまみ食いのように意に沿う、沿わないかで判断し自己を分類する。最近流行りのMBTI診断がそれだろう。

日本のクィア観における性別に対する意識は薄い。

空気が読めるかどうか、場にそぐわないかどうか、均質性に対する意識の強さは、自己に対する意識の曖昧さに通じる。

本来は性別に対する違和感からくる社会運動は、個人の権利意識や性別に依らない社会的責務に関する社会的通念を引き上げるべく存在しなければ、クィアという言葉、概念そのものが社会に不要なノイズだろう。

権利の主張そのものが他者を侵食するかのような脅威になった場合、排斥に向かうのが真に倫理的な社会であるからだ。ゆえにテロリストは政治的立場を明確にしないまま犯行に及ぶ。犯罪者個人の政治的立場を明らかにすればするほど、属性そのものが排斥の対象となる。しかしながら、属性についての理解そのものを社会が拒んだ時、社会が個人の属性によって「判断」するときの公平性を妨げるだろう。

故にどちらでもない、という意識は内省的な自己憐憫の情であり、正義とは、正義を主張する時には感情的な憤りを伴うべきではないとなる。

私達は「終わりなき闘争」から目を背けていけない、闘争の本質を見定めなければいけない。

哀しみを享受するその気持ちごと翳りを帯びてしまうから。終わりなき闘争が妄言となる日を願わずには居られない。

星の砂

 

煙る海の奥底で降り積もる塵芥

後に続く微かなヒカリ

生きていた証がちらと光る

ここは昏いところ

押し込められた意識の底で朽ちるのをただ待つ

僅かばかりの安寧

慟哭 海は割れんばかりのうねりを伴い

同刻 風は悲しみの渦をも見透かして

漣は騒ぐ 終焉の予感を記さんが為

海の藻屑となった死者に倣い ただ黙する

 

煙る空の真上で響き鳴る雷鳴と

後に続く命の痕跡

生命のスープ 原初の月明かり

もうじき明るくなるだろう

押し込められた意識の中で芽吹くのをただ待つ

僅かばかりの期待

慟哭 産みの苦しみは干渉する

同刻 膿んだ想いが痛みを伴う

漣は喘ぐ 生きる為の力を示す為

抱えられた命は習う 言葉の意味を

 

生命の頭陀袋 真っ逆さま

奈落に堕ちていくよ

いまなんどきの春を迎えただろうか

冬の寒さがすっかり身に沁みて

春の暖かさを忘れてしまったから

中庸という思想について

宗教と哲学の融合、中庸という思想について

 

原始宗教とは、自然との対話であり、死の恐怖に囚われないようにするために、伝承することが肝要であった。

 

哲学とは、文明化した社会における高等な言葉遊びの一種であり、だからこそギリシャの学者は全ての義務から開放され、思索に耽けることを許された。

 

宗教と哲学が対峙する時、それは権力の均衡が崩れるということ

 

哲学は権力者の手によって管理されることでその安寧が保たれ、宗教は、権力者の上に存在し続ける上位概念だからである。 

 

だからこそ、均衡が取れる一つの地点、中庸という概念が必要である。

 

中庸の下位概念はつまり宗教である。

 

そして、中庸の思想に対する上位概念は哲学である。

 

中庸という思想を帰点として、自らの行動規範とし、それを崇め奉るのが宗教であり、

 

中庸という思想を始点として、思索の機構として維持し続けるのが哲学たる所以である。

 

よって中庸という思想は、唯一無二の真実でもなければ、天啓でもないことが分かるだろう。

 

わからないということがわかっただけでも、それは見識を改め、新たなる自分となるための縁となるのであった。

 

 

 

クィア文学の萌芽(九鬼周造著『時間論』によせて)

輪廻は一般に因果律、すなわち原因と結果の連鎖に支配され、

 

また輪廻とは

 

時間概念、無際限の再生、意思の永遠の反復、時間の終わりなき回帰

 

とある、そして仏教は輪廻の概念において

 

内的諸相、つまり醸成されていくものが、次の諸相を形成し、来世において「顕現」すると言えるのである。分かりやすく言えば、ある女が、男に生まれ変わるとすれば彼女の内的諸相は男としての在り様であったということである。

 

業、つまり所行と道徳的応報の観念、の内に同一性の概念が必然的に含まれているとある。業とは同一性を目指し、同一性に帰着するとある。

 

 深遠な抽象とは、私が考えるに醸成されてできた自我の中のいっとう大事な上澄みであり、それが、私を構成する何かであるということなのだろう。上澄みではあるが、存在としては澱のようなものであり、私を構成する液体の中で、ふわふわとただ存在するのみである。

 

「液体の中に存在する澱」

 

つまりは、日々の暮らしの中で、感じずには居られない違和感、余所余所しさ、異邦人にでもなったかのような気分…

 

集団の中に居るとき、誰かと話をしている時、ふと、一人になった時、私は自分のことをひどく「奇妙な」ものとして捉えることがある。

 

それが性別違和でないことは確かであるが、確かに自分がこのコミュニティに存在すべきではないという実感を伴った感覚はついぞ消えることは無いだろう。

 

私は絶えず流浪することを欲し、行き着くべき場所がここではないと思う限りに於いて。

安寧を求めつつも不穏な心持ち

空を見上げた時、焦げるように眩しい太陽がいつか自分の身を焼き切ってくれるんじゃないか、

そう、期待して

いつか、僕を取り巻く世界が変わることを期待して今日も僕はふらりと立ち寄る店がある 

宝くじを取り扱う小さな売店

よし、今日はここにしよう

うつらうつらと、眠りこけてるおばあさんは僕が窓口へと近づいていってるのにも気づかないでいる。

お金が欲しいなーと思いつつも、実際五億円が当たったらとか、

いやいやそんなことは、絶対にないんだろうけどと思ったりするけど、でも買うってことは何がしかの期待をする権利も買ってるっていうわけでもあって。

とにかく、当たった後のことを深く考えずに買う宝くじは当たることも無く

その度に、まあそんなに買ってないからなーとか特にとりとめもなく理由のない理由をつけて諦めてるのだけども

時々、ちりりと胸を焦がすような思いに駆られるのだった。

僕はその思考を停滞させる何かから必死になって逃げることは出来ないのだった

のらりくらりと翻すのが精一杯で

茹だるような暑さにやられてしまったかのような

…とにかく居心地の悪い気持ち

そういう時は、夏の事が多くて、その度に僕は太陽を眺めてみる

指の先から漏れ出す光すら眩しくて目を開けていられないのは当然だとしても、何かその原因を掴み取ったかのような気がして幾分か気分はましになる

…焦がれるくらいの何かが欲しいけど

きっと、…きっと宝くじにすらやる気の出せない僕には難しいことなんだろうなって

そう思いながらも今日も僕は探し続けている。