「言葉の箱庭」
日本には四季があり、それは他の国では考えられないほどの独自性を伴っている。と言われがちであるが、「四季折々の」や「二十四節気・七十二候」という言葉があるように、明確な区分が存在することそのものに意義が在り、またその由来は日本独自のものではなく大陸からの伝来によって通年化した概念であり枠組みである。実際、『天文訓』や『漢書』の「律暦志」には示されており漢代(紀元前202年~)の中国ではすでに通例化していたことがわかる。中国と国交があり、教えを乞う立場であったかつての日本においては時間区分をはじめとした法体制の整備は時を下るが「律令制度」という言葉に代表されるように重要な概念であったと考えられる。時の区別なくして、記録の正確性なし、分別無くして法律なしともいえる。
国家の体制を形成し完成するにあたって必要とされた概念、通念のその根底にあるものについて紙幅を割くべきではないので割愛するが、では、文学的世界に絞った時に「二十四節気・七十二候」が果たした役割そのものについて考えるのはどうだろうか?それは、あまねく存在する世界を捉えるが為の言葉、つまり時間に対する感覚を養う、ということに関して機能している言葉であることがいえよう。時間を記録することで、風景は記憶され、その流れゆく時間ごとに象徴となるモチーフとしてのモノ・コトが存在する。
理解とは共通の認識があってこそ、伝達可能なものであり、とある事象からの明確な切り取りが必要である。そうしてその枠組みたる概念を理解せんがために必要となるのは、「学び」である。
言葉を書き表わし、意味を理解するために文字が存在するが、理解した、という感覚そのものは、とうてい可視化できるものではなく、ひどく脆弱で儚いものである。
森羅万象総て流転す。世界は美しさで満ちている。それを理解せんがため解釈しようとせんがため、手のひらで掬い取ろうとしても流れ零れ落ちていくものたちには確かな尺度が、指標が必要である。故に明確な区分として遍く運用されているものを取り入れた、と考えることが出来るのではないだろうか?
そうした弱く儚きものは、強い言葉を以て賞賛しなければならない。まるで手折った枝葉を生けるかのように、それを携える壺には新鮮な水をたえず汲まなければならない。壺は瑞々しい言葉を欲している。さながら手折った枝葉の美しさがいつまでも続くように。
だからこそ概念の枠組みは、強固なものでなければならない。一方で概念というものは万人にとってやさしいものではない。さながらそれはパターナリズムの撚糸によって織られた強固な鎖帷子のようでいて、威圧的で、強固で頑迷さを伴っている。誰もが理解出来、漠然と存在しているものは概念というよりも生活に根差す実用的な知識を伴っていなければひろく普及することも無かっただろう。つまりは概念であっても通俗性をともなっているものは、音声としても存在している言葉の影響を強く受けることとなる。通俗性が抱える実用的な知識もまた時代を経て変遷していくいうちに、価値感覚は変容し、形骸化してしまうものもある。
ことばの表象性そのものが、音声の影響を受けて変質していくのは日本に片仮名や平仮名が存在するが故であるが、なにも日本語に特有の現象ではない。
しかしながら、漢字が表徴文字であることを考えれば、表音文字と表徴文字が混在する日本の言語感覚は非常に複雑怪奇であるともいえるだろう。
文化的基盤が似通っていれば、その枠組みをまっさらな状態で一から創ることの難しさを痛感しているが故に、恣意的な改変を施すこともおそらく無かったのだろう。言葉のもつ概念的意味の引用によって始まる文化の伝播は強固な繋がりをもたらす。区分が持つ精緻さは、ただ存在するものであった森羅万象が自然という言葉に成り代わり西洋の定義によって物事を語る現代においても文化的、歴史的意義を伴っていて尚、通用するものである。
記録なくして記憶無し。すべてのことのあらましは正確な記録によって著述すべきである。
自然がただ遍く存在するものではなく、とりわけ恣意的な意味合いを伴って存在するものである、としたとき宛てがわれるべき言葉は「箱庭」であるべきだ。
箱庭のなかは自由である。おのれの価値観に従い、概念や通念に対して言葉をあてがいそのうちに秘めた感情をそっとしまい込む。感情の萌芽はやがて枯れることもあれば、大樹となり芳しい芳香を放つ花と成ることもあるのだった。言葉はままならない。結びつけるべき言葉、伴う感情の切れ端は記憶と共に薄れ去っていく。その残りかすのような思い出はあなたが本来は忘れ去ってしまうべき思考の澱である。その在り様そのものが然るべき手段を以て取り除かれるべきである。
十七音が刈り取る心象風景もまた箱庭であると言えよう。
箱庭は必ずしも自身にとっての理想郷ではない。概念を理解する為には快、不快の出来事は必ず存在し、対比してこそ己の価値感覚を養うことがようやっと叶うあわい、「狭間」のものであるからだ。
故事成語があるからこそ、わたしたちは古来より共通の感覚を持っているという驚きにも似た感情を伴って美や儚さ、美しさを端的に表現した言葉を享受することができる。
また五言律詩、七言絶句などの形式に、音の調子を整えることの意義や確かなルールが存在するにもかかわらず創意工夫に満ちた表現に作者の技術力を垣間見ることが出来るし、扱われる言葉の中に単に教養としての言語理解ではなく、そのひとが触れてきた日々の言葉を感じ取ることでその人の心の内や筆致のなかにみえる手習い、もしも痕跡が原典となるものに存在するならば、その推敲のプロセスのなかに作者の感情の漣とあてがうべき言葉の変遷の跡をみることが出来るのだ。それは時代を経れば経るほど喪われてしまう。或る人の書き著した文学を辿るという時に、その時代背景ごと、心象風景ごと手繰り寄せていく作業は何とも狂おしいものであるが、その筆致に魅了された者としての責任感がそうさせるのである。
文学的な価値というのは元来、そういう単純かつ明快な欲求に突き動かされた人々の営みによって存在するものであってほしい。
言葉をあてがう時の内面の憤りにも似た、伝えたいという衝動、書き記したいという衝動、言葉を探し求める時の表現への渇望、言葉の威力と意味に魅了され、書き表したいという欲は寝食を忘れるほどに生活を浸食していく。
蓋し私の原始的欲求は書くことに在りというほどに、言葉を渇望し、表現する為の言葉を探し求める日々である。
これを私のゼロ地点とし、俳句の道がまだ途上である私の決意表明としたい。
「有季・無季があらわすもの」
有季と無季の別を簡潔にあらわすと「季語があるかないか」とされているが、実際のところはどうだろうか?
有季は俳句が抱えてきた、季節区分を端的にあらわす表徴として機能している季語のもつ歴史的背景を理解することが必要とされる。また季節区分と同様に言葉の意味合いまでも明確に区別されている。つまり、有季であるということは、季語があるかないかではなく、時間的連なりを切り取ったもの、つまり「有期」であるということを示してもいる。季語は俳句を嗜むうえでの教養であり、その共通言語をどれだけ知っているかは俳人としての嗜みであるし、取り合わせの新規性こそに俳句としての面白みが宿るとも考えられている。
一方で真に無季俳句として必要とされるのは概念をあらわすことばの心象風景をいかに切り取り、端的に著わすかということである。
概念をとらえたことばの意味性は不変性、普遍性を伴ってあまねく存在するが為に時間的隔たりをもたない。ゆえに本来の意味としては「無期」が妥当だろう。ここでは言及を避けるが、時間の区別なき無期的な表現が果たして厳密には存在するのかは判断が難しい。季節区分が存在しない表現として存在する「無季」という言葉は、科学技術が発展した現代社会に於いて、季節の別なく存在するものは多数存在するという主張に対して立ち向かうべきなのか、それは否である。つまりは季節区分を有する季語としての意味合いを喪う、ということである。
有季という言葉、季語の重要性が現代社会の効率化やライフスタイルの変化によって浸食され、かつ無季という言葉が単に「季節を問わない表現」としてしか捉えられなくなってしまった時、俳句における季語のあるなしを評価する行為そのものが取るに足らないものとして見做される日は近いのである。遍くひとびとの共通理解を以てしか、季語、つまりは言葉そのものの有用性は存在しないからである。
俳句とは厳密には文章ではない一種の標語にも似た言葉の連なりである。であるならば、文語形か口語形か、はたまた台詞的表現を意図して言葉を配しているのならば様相が異なってくるが、単に音声情報として一つの時系列的な繋がりを持っているのであれば形式的なものであり文型は統一すべきである。台詞的表現を意図する場合であれば、少なくとも一つの俳句の中に二つの視点が存在する、ということになる。主観的表現と、客観的視座に基づいた表現が混在する時には記号で明確に書きあらわす必要がある。そして特に現在の言語的概念に対して、旧仮名遣いを使う向きは避けたい。それは声に出して俳句を詠んだ時、単に音の調子を合わせる為に存在するものとして、旧仮名遣いが今日まで存在することの意義を貶める行為であるからだ。
「腹減った」腹いせに白髪数える
五・七・五のルールからはやや外れるが、上五の句であり一見すると鉤括弧で区切る必要はない句である。しかしながら、これが二つの視点から組み上がった句であるならばこそ、あくまで台詞部分として存在する箇所は書き手を離れて解釈を読み手に促す場合、明確に明示されなければならないのである。腹が減ったのがあくまで自分であるならば腹いせという言葉はあまり相応しくないようにもみえる。しかしこの句が自分以外の誰かに「腹減った」という言葉を投げかけられて腹が立ったという因果関係を内包していれば、腹いせという言葉を選んだ意図は伝わるだろうし、白髪を数える行為の意味合いも、記号で括るだけで変わっていくのである。
白髪を数えるという行為が象徴する感情的背景はさまざまである。主語と述語が明確な繋がりを持たないまま省略されがちな俳句が抱える問題点である。たった十七音で表すことの難しさはどこに視点を置くべきかなのである。意味の通じにくさを、季語や旧仮名遣いで誤魔化すべきではないのである。
また分かち書きは避けるべき手法とされているが、それは意味の連なりを担保しているのが五・七・五の音の調子を前提としているからであり、読めば自然と音の調子に従って意味合いとともに切れているからこそである。
情報としての伝わり易さが担保されているのは暗に季語を有し、五・七・五の音の連なりによって構成された定型句だからこそ成立する書き方であり、無季や破調などの自由な表現を認めるのならば、音声情報としての解りやすさを優先した書き方も認められるべきではないだろうか。個人的な信条としては破調こそ十七音のまとまりを固辞すべきであり、破調における字余り、字足らずは表現が意味するところの概念を顕しているかどうか、言葉の吟味がしつくされているかどうかで判断すべきである。
中八と破調の作例を示す。
字余りにも似た夜半ばの名残りよ (破調、字余り、分かち書き無し)
雛よ束の間巡れよ因果の律 (四・八・五、ルビなし)
字余りが表徴するものが、夜なのかはたまた名残りなのかは作者に問わねばならない、これでは作者の意図を汲むことは出来ないだろう。
よって分かち書きを以て、私の作句意図の通りに示したものが以下の表現となる。
字余りにも似た 夜半ばの名残りよ
字余りそのものを示しているので意図的に十七音ではなく一字余りの十八音で示している。この場合、詠嘆を示す「よ」は十七音で書き記すべし、というルールに則れば容易く削ることの出来る一音として考えることが出来る。先に述べた破調は十七音で示すべし、という私の信条にも反する。
だが敢えてそうしたのは字余りという概念そのものが余韻を投げかける為に存在すべきものであるという思いそのものを表徴しているからである。そうして分かち書きという表現も誤読を避ける為の表現技法として許されたい。これがもし、「字余りにも似た夜」と区切られてしまった場合は目も当てられない誤読を生み出してしまう。「半ば」という言葉が強く「名残り」という後に続く言葉の意味合いに引っ張られてしまうからである。また、俳句は名詞部分を句切れとして詠むことが多く、そうした誤読が生じてしまう背景と、読み手の理解を拒むかのような誤読が生じてしまうことそのものは、作句能力の低さを表し、また句として拙いと称される所以は重々承知しているつもりである。
次いで嫌われる中八という概念である。俳句が音の調子に基づいた定型的表現によってのみ成されるのであれば中七は俳句の表現のなかでは一番自由度が利く箇所である。その為、中八は言葉をやりくりすれば避けられる現象として忌み嫌われるのだろう。
季語として選ばれるべき言葉は、果たして五・七・五の整った音の調子の中にこそ存在するものであるべき、そうした思い込みの下でしじゅう押し込めても良いものなのであろうか?花鳥諷詠が目的とする自然への憧憬からくる作句への情熱、あてがうべき言葉をたえず探し求めるその心の内は十七音で端的に書き著すことは厳密には不可能である。つまりは、削られていく言葉たちのほうに作句する際の想いが存在する。そして行間を読ませるための工夫として季語がもつ歴史的背景を借りるのである。
一方でこうも思うのである。
雛を「ひいな」と読めば、これは雛人形を示す春の季語である。しかしながら雛を「ひよこ」と読んだ時にひよこが孵る現象は春にのみ観測される現象だろうか?養鶏場では卵が年中生産されている。有精卵であれば、孵卵器やその他方法で孵すことが出来る。誤読を避けるのならば、平仮名で書くことも出来るだろうが、この場合間投詞としての「よ」の存在感が薄れる。雛(ひいな)と雛(ひよこ)は同じ漢字ではあるが、それが指し示す表象は全く異なっている。
演繹的に判断し、雛が季語であると捉えた途端に意味の繋がりの弱い「分からない」俳句として読まれてしまう危険性を孕んでいる。この俳句が意味するところは卵か先か、鶏が先であるかの因果律について書き著したものである。しかしながら、作句においては因果関係は発端をどちらに置くべきかは端的に示されねばなるまい。表現における因果関係とは書くという行為にこそ事の発端が在り、書くことの目的には伝えること、正しく伝わることの結果が伴わなければ成立し得ない。だからこそ表現の段階に於いて、誤読はなんとしても避けなければいけない事象である。
言葉の連なりが作者の意図する通りに伝える、伝わる為にはまず、可視化することが肝要なのではないだろうか。言葉を尽くしたとて避けられない表現は確かに存在する。また、表現そのものに言外に伝えたい意図があった時、誤読を避ける為の技法としては以下の書き方しか存在し得ないのである。
雛(ひよこ)よ束の間巡れよ因果の律 (四・八・六、ルビなし)
構成としては中八と称されてしまうが、実際の音の調子としては「ひよこよ/つかのま/めぐれよ/いんがの/りつ」として音声情報として読んだ時の破綻はあまり無い表現であると言えはしないだろうか。
しかしながら、字余りでなく因果の律を因果律として書き記した時には一見、十七音の体裁をとった「なんとか整えた」俳句として目に映ることだろう。何故なら中八のルールを逸脱したうえ、字余りまで発生した「良くない」句だからである。私はそこに敢えて反旗を翻したいのである。
また表現そのものには歴史的変遷が存在する。旧仮名遣いという言葉が指し示すべき本懐とはまさしく変遷があった名残りを今に伝えることである。過去を思い起こし、再構築するには言葉の概念、価値感覚、歴史的背景ごと「輸入」せねばならない、それほどにまで言葉遣いというものは使い尽くしていくうちに変容するものだからである。対比があってこそ、言葉の味わいは拡がるのである。ゆえに旧という言葉は優劣の差ではなく、人が過去に押しやってきた歴史や日々に根ざしていた筈の価値観の重みであると言えよう。
あだものやひとひらの芥子散りしをれ
この場合の芥子とは芥子の花そのものではなく虞美人のことである。ゆえに季語が存在しながらも無季として扱うべき俳句であり、旧仮名遣いによって著しているものの、出典先はさらに時代を遡って史記や漢書などに記される垓下の歌の一節を切り取ったものである。
文型を旧仮名遣いにする意図としては、漢詩が教養のひとつとして考えられていた時代にまで遡ることをも内包している。作例は作例であるが、私が意図するものが伝わることを願って已まない
「無季俳句が象徴するもの、戦争」
戦争とは、季節の隔たりを持たないがゆえに無季俳句を象徴するものであるといえよう。しかしながら、元来の平和を願う心、戦争終結を願う思いの丈の尊さはそこそこに、ただ書き著し表明することの虚しさを却って強調する。
死体と慕い、火や否をくべよ空しき
私の空しさを端的に著わすと以上の俳句となる。これもまた、詠嘆の「や」であるか並列を示す助詞の「や」であるか、判断が難しい俳句であるが、句読点を配することによって容易に誤読を避けることが出来る。分かち書きをするか、句読点を配するべきか判断は難しい。
記号的表現における句読点そのものが意味するところはまだまだ考察の余地があるが、視覚的効果や強調する効果を狙いやすいのが句読点であり、単に誤読を避けるための補助的要素としてのみ作用させたい時には分かち書きを採用すべきであると私は考えている。
戦争は勿論、「有期」のものであり、命の儚さは体よく切り取って言葉を並び立てるような概念ではない。死んだ人、生きている人との関係性の数だけ感情が存在し、そこにあてがうべき言葉はない。お決まりの定型表現に心の憤りを託すこともあれば、現実から非現実的感覚として目を背ける為に存在することもある。数量的表現とは、感情と云った温度を持たないがゆえにただ遍く存在することを赦されているのみである。
「山笑うが表徴するものと、内包される意識」
山笑う黄色く煙る空憎し
中国の故事を顕した漢詩に準えて生まれた「山笑う」という季語は、花鳥諷詠を謳う高浜虚子の時代からみると皮肉ともとれる。自然を克服する為に科学が存在し、産業が発展していた時代は今や、災害が生活を脅かし自然を理解する為に精緻な記録と科学の物差しが必要不可欠となっている。
自然の美しいさまを切り取り慈しむような花鳥諷詠を擁する俳句たちの素晴らしさは確かに存在する。しかしながら、今や花粉症は現代の日本における風土病といってもさしつかえなく、自然のいっとう疎ましいただの切れ端、人々を悩ます自然現象に焦点をあてたこの俳句もまた、人が自然のなかで生きるということの意義について問うことが出来るのではないだろうか。
「山が笑う」言葉そのものに主観的視座は存在しえない筈である。しかしながら、冒頭の俳句の場合はどうだろうか?空が黄色く濁っているように見えるのは黄砂をはじめとした春に特有の現象であり、「山笑う」は春の季語であるから意味の逸脱は一見して存在しないように感じる。しかしながら、本来の構成としては花粉症で悩ましい思いの丈を空や山にぶつけているだけであり、「山笑う」は春を記号的に表すモチーフとなってしまっている。
本来の「山笑う」の季語を味わってみよう。これは主観に基づく感覚的な表現である。山そのものは無生物であるからして、山が笑っているように見える訳ではない。山が微笑むがごとく新緑を携えた木々が揺れ、春の兆しを喜ぶ「わたし」の主観がそうさせているのである。笑っているようにみえるまでに客観視された、自然へのたしかな眼差しに満ち溢れた表現である。
自然への忌避的な感情、笑うという行為そのものに侮蔑的な意図が内包されているこの句においては、「山笑う」が有する季語としての歴史的意味合いは確かに喪われてしまった、ということが出来るだろう。
「科学もまた変遷す」
花鳥諷詠、時事を編みこんだ表現が当たり前となった現代の俳壇において、今一度必要とされるのは、科学的知見に根付いた慣用表現としての季語の正しさではないだろうか?
例えば「クレバス」という晩夏の季語がある。それは親季語である雪渓に類する子季語であるらしい。いうなれば、現代における季語というのは、俳句独自のシソーラス構造を伴って、季節区分を有する言葉として存在するということになり、その親季語、子季語という概念もまた「勉強」するしかない概念であるということである。意味上の連なりをもった言葉の相関関係を知ることは確かに十七音という型枠に押し込める際に重要な意味を持つ。五・七・五の調子が基本であるからして明確にルール違反とされる中八を避けるが為に音を刈り取る作業が必要だ。となるとそれに類した言葉をあてはめていくのが作句に必要な作業ということになる。
しかしながら、言葉の本来の意味に立ち返って「クレバス」と「雪渓」という言葉そのものについて理解しようとする時、両者はまったく異なる言葉の意味を有していることに気づくのである。
「クレバス」という言葉は元来英語である。オックスフォードの辞書によれば氷河に存在する深く裂けた割れ目のことである。氷河は、西洋においては季節感を伴わない言葉として認識されているだろう。それくらい身近に存在するものであるし、また「ずっとあり続けるもの」としてすら認識されているだろう。となると、どう考えても子季語として存在している晩夏の季語「クレバス」というものは和製英語であり、氷河がもつ不変性とはかけ離れている。そして雪渓とは夏の雪、つまり山あいにいまだなお残る残雪が存在するさまを称したものである。それは登山という行為によって、認識され得るものであり、日本ではたいてい冬の山への登山は登山を愛好する人たちにとっても強くタブー視されている。であるとするならば、登山を想起させる言葉たちは冬の季語であることはあり得ないのである。夏の期間、僅かに許された難易度の高い山での登山、険しく切り立った崖に僅かに残る雪の美しさ。ゆえに雪という言葉を冠しながらも夏の季語である必然性と意義は確かに生じている。とある行為の希少性に宿る美しさとでも云うのだろうか。
俳句を愛好する人たちの視点から見れば、確かに二つの言葉は非常に似通っており、雪渓のなかに潜むクレバスといった物理的な入れ子構造そのものを言葉の上位概念、下位概念を示すような親季語、子季語という言葉に押し込めてしまえるのだろうが、私には違和感を覚える。
ただ、作句のためだけに存在する概念として、表現者の驕りとして存在するかのように。
言葉の美しさ、意味性そのものを問わんが為、語彙を身に付けようとするときに「季語の理解」はひどく窮屈なものに感じることがある。
「言葉の名刺としての俳句」
最後に俳句というものの再定義、ならびに短歌との比較について述べていきたい。
あえて簡潔に表現するならば、短歌とはエッセーの最小単位であり、俳句はコピーライティングの最大幅としたい。書くという行為に焦点を絞って言えばこのように表現されるだろう。
短歌は特に心の響きをしたためる随筆として、何をかを書き記したい時の「要約」として最適な題材である。俳句は心情風景を端的に表すには短すぎるのである。季語により言葉の所属を明らかにし、感情の所在を類推させるのがかつての俳句が目的とするところであった、と私は考えているが、コピーライティングとしての俳句は概念の理解を助けるための標語や名刺として機能させることも可能である。
また、俳句の目的としては、風俗・時事を連想させる概念を言葉で塗り固めた枠組みを新たにつくることこそにあるといえよう。口で言葉を咀嚼していくうちに、飲み込まれゆく表層の概念、ちらと覗く衝動の所在、時代と共に変容し変性してもなお残る感情の残り香を私はなんとしても書き著したいのである。そのために言葉を綯い、探し求め続けている。
犯罪なければ刑罰なし、法定の刑罰なければ犯罪なし、(Nulla poena sine crimine; Nullum crimen sine poena legali.)に準えるがごとく、この標語を掲げたい。「因果律なければ表現無し、誤読なければ表現成し、因果は成立す。」意味としては、因果には法則が存在し、法則のない表現は存在することはできない。そして、誤読のない表現には因果が存在すると云ったものである。