登らねばならない、とにかく上へ
天板から照り返された光が眩しい
季節は夏だ、其処彼処から蝉の鳴き声が聞こえてくる
何段か登った所でふと疑問が生じる、
私は一体何をしているのだと、
だがもう後がないのだ
何をやってもダメだと言われた
何故こんな事が分からないのかとも
所詮お前には向いてなかったのだとも
お前は社会を知らないのだとも
終始狼狽するうちに言葉は失われていき
動きは精彩を欠き
許しを請うこともできず
かつての私は木偶の坊のように突っ立ったままただ狂ったかのように懺悔を繰り返していたのを記憶している
反駁する程の自我の強さも、自信もない私の精神は少しずつ削り取られもろくもその形は喪われていった
もうダメだ
おしまいだ
やれることは何か
最後に残された唯一の事とは
上に登るしかない、
登って、登りきった先に死という安寧が待っているのである
最後の一仕事だからと、この螺旋階段は自らの足で登り切ると決めたのである
あと少し、あともう少しだ、
天板を睨む度、汗が滴り落ちる
ひとつ、ふたつ、ぽたぽたと
痕跡を遺しながら
今私は生きている、まだ、確かに
この階段を登っている私は確かに、生きている
合皮で出来た革靴は運動には向かない、手摺を掴む度肩の部分がせり上がってくる背広も、一番キツくベルトを閉めてもなおゆとりのある隙間から何度も裾がはみ出てくるのを直し直しつ階上に歩を進めていくのも疎ましくその様は酷く滑稽だ、だが死装束としては今の私にはこれ以上とない相応しい物である
ああ!汗で張り付いたワイシャツの何と不愉快なことか!
無様であってもこのような"栄光ある"死に様を晒せば、あの上司への私の細やかなる復讐は成就するのだろうか
分からない、
だが、自分が怒鳴り散らし続けていた部下が死ぬのは些か居心地の悪いものであるのは確かだろう、そうであってほしいものだ
だから私は今こうやって螺旋階段を登っているのである
あの上司の下に配属されてからというものの仕事がこの上ない苦痛を感じる代物となってしまった
以前の自分であれば決して犯さなかったであろうミスも何度したか分からない
一方でやる方ない怒りを何かに向ける事すら能わない己の不甲斐なさを痛感し、ただ無能という落伍を日々の慰めとし、刻一刻と腐敗を募らせていく精神に背を向けたが故の結果である事は充分承知している
唯一の対抗心を表したにしても何とも情けない形だと、もしかしたら嘲笑う人もいるかもしれない
飛び降りるのは一瞬、しかして死に様は実に無様だ
話に聞いた限りで想像の域を越えないが
飛び降り死体という代物はプロセスの気軽さとは反対にとても衆目に晒されるべきではない己の醜態をまさしく最期に晒すのである、消して美しくも、守られるべきでもない、ただ人のかつての姿でしかない
何も特別なものはない
臆病な自尊心がそうさせるのだ
とおそらく理解している
ただ私にとってはこれは抗議であり
螺旋階段を登りきる事を死出の花向けとするというある種の信念と目的を持っている
死者を偲ぶというのは単なる通例である
あの人は良い人だったというのは差し障りのないお決まりの文言である
そんな簡単な事なのである
そして遺書にはこう書くのだ
「私の人生は私の物であった筈なのに他人に決められてしまう事が、果たして正しいといえる事なのでしょうか、
私の人生は、上司の為に存在するのではなく、また意のままに扱える手足ではない、
腐り落ちていく手足だったものは、本当はあなたのものではなかったのだろうか」
ああ、人生とはかくも些細な落伍によってその在り方を如何様にも変遷させていくものなのである
歩を進めていくうちに、実感していく
何故、あそこで謝らなければならなかったのか
私は木偶の坊である事を強いられ続けていたのか
大人になるという事は我慢の連続である、
諦めの連続である
という事を十二分に理解していたつもりなのではあるが
それでは認識が甘かったのだろうか
常識がないと言う上司の言う"常識"とは果たして何であったのか
それは良識が欠けている発言だとは思わないのだろうか
一歩一歩目的に近づいていくうちに、今までなりを潜めていたはずの、なんとも無様な反抗心が湧き上がり始めていた
だが一度覆されてしまった己の通説が正しいかの確認をするだけの余裕はない
本来常識というものは目の前にいる数人の人を満足させる為の体裁ではないように感じられ、己の安っぽい信念をあたりに吹聴し続ける様が非常に滑稽なものにすら思えてくるのである
それによって作られる人物は実に"当人にとって"理想的だ
他人に写る自分の姿を想像して酔っているようなものだ
実に滑稽だ
なんとしても抗議をしなければならない
より一層決心を募らせ階上を登っていく
ついに、登りきった
思い残す事はない、むしろ清々しい達成感すらある
願いはこれで達せられる なんとも些細で滑稽な、最初で最期の抗議である突然電話が、鳴りだした
今日は休みの届けを出していて営業の電話は来ないはずであるが
苟も人生における僅かばかりの期間に身についた所作により反射的に電話をとっていた
課長からだった
「あ、もしもしお前か、療養中の所すまない。部長が、出先で熱中症で突然倒れて救急搬送されたんだが持病もあったせいでついさっき亡くなったそうだ
何分突然の事で…
お前も身体弱そうだから気を付けるといい」
上司が、死んだらしい
あの上司が
ああ、私は、死ぬ理由がなくなってしまった
これからどうすれば良いのだろうか
死にたいと思う気持ちはもはや消え失せていた
ただこのうっとおしいまでの暑さからくる不快感はただ増すばかりであった
「おい、返答がないが、大丈夫か…?何分急な事だから仕方ないけど、お」
「私なら大丈夫です」
遮るように一言放った
「大丈夫です。」
「とても、…とても教育熱心だった上司であったのに非常に、残念です」
言葉は選んだつもりだった
「そうだな…会社側からの告別式等の通知はメールになるかと思うが、もしかしたらまた電話もあるかもしれない、がよろしく」
「わかりました、わざわざ有難うございます」
通話が切れた
携帯を戻すと
鞄に入れたまま忘れさられていたペットボトルの蓋を開け、頭にかけた
些か気分はましになった
頭痛薬は使い切っていた
「なぁ…これからどうすればいい?」
返答を返してくれる人などいない事も分かっているのに思わず口をついて出た一言がそれだった
新たに出来た水溜りに一瞥をくれることもなくやおら立ち上がって螺旋階段をどうやって降りるかに考えを巡らせる事にした
上司の名前はついぞ知らないままだった
これからも覚える事はないだろうが