ここは銀河研究所

8000字を目標にして書いた話、選考は落ちたのでここに書き残すこととする。

 

59、58、57、56…

おかしい、時計の針はちっとも早く動いてはくれない。しかめっ面でにらめっこ

「机のうえにひじをついちゃいけません、頬杖もダメ。」

ママはそういうのだけど、仕方ないじゃない。こんな時は針が随分ゆっくり動くのね、どうしてなのかなぁと思っていると3、2、1… 

―――あ、時間だ。

「ママー時間になったよ!じ、か、ん!」

「はいはい、焦らない。」

ことり、机に置かれたポットはほんのりと温かく、人数分とほんの少しの気持ち分だけの葉っぱが、大きな口へさらさらと注がれていく。そこへお湯を注いでいくと葉っぱはなんだか嬉しそうで、ゆるゆるとほどけていきながら中で踊っているのだった。

そして、飴色に変化したお湯をカップへ注ぐと、ぷんといい匂いがしてくる。

「青い色したお花が入っていたのに、青色にはならないの?」

「でも、良い香りがするでしょう」

「そうだね!…あ、お砂糖は?」

「ひとさじぶん」

「そして…「「ミルクも」」でしょう?」

二人の声が重なって、ママの顔を見るとママも笑ってる。なんてことのないおまじないのようなもの、今日も大成功だ。

「お菓子は?」と聞くとママは戸棚から何かを取り出してきて

「今日はね…フォーチュンクッキーっていうの、中に紙が入っているから気をつけてね。」と机の上に並べるのだった。

それを手に取り、中を割ってみると小さく折りたたまれた紙が入っていた。開かずそのままポケットにしまい込むとクッキーを口に放り込んだ。優しい甘さと香ばしい匂いが口いっぱいに広がってなんだか幸せだ。今日のおやつもやっぱり素敵だな、と時計の近くにある戸棚を見る。不思議なことにお菓子が入っているはずの戸棚を開けても空っぽで、3時のおやつの時間まで秘密のままなのだった。

一番きらいなのが、時計とにらめっこしている時で、

一番すきなのが、ママと顔を見合わせていつものおまじないをしている時、

お菓子の名前を聞くのも楽しくて、サクッとした生地に包まれたリンゴのお菓子パスティス、スパイス香るレイヤーケーキ、真っ黒い芥子の実の挟まったモーンクーヘン、レモンがアクセントのバクラヴァ、クルミの入ったジート、見たことがないくらい大きなパイのガタ、レモンとミントのジブラルタルキャンディ、ハチミツ味のメドヴィク、みんながみんなママとの大事な思い出で詰まってる。

 

 

そしてなんてことのない事でも気持ちに名前を付けてみるんだ。こんな気持ちの時はそう、しゃりしゃりした食感の細長いジェリービーンズ、甘くて、とてもいい香りのするお菓子はこんな気分にぴったりだ。

「何もかもが簡単に手に入るようで、でも、実はそうではなくて

…だから私は探し続けるのよ。あなたの笑顔が見たいから」

ママは静かに呟いた。ママは時々むつかしいことを言うのだった。だってママはいつもすごく楽しそうで、ママの寂しそうにするその気持ちがどこから来るのか、私にはわからないのだった。お茶の時間が終わるとママは決まってお出かけするのだった。

部屋には私だけ。さあ、深呼吸して、何をしようか?

少しだけ広くなったようにも思える部屋の片隅には本棚があって、ずらっと並んだ本は、それぞれが分厚い表紙に包まれていた。しばらく見かけないうちに埃がうっすらと被ってしまっていたので、ぱたぱたと払って元の棚に戻す。そうするとさっきまでため息をついていたようにも見える本がなんだか嬉しそうにしていた。

風がさあ、と吹いてきて開け放たれた窓の方を見る。明るいなあ、と思わず目を細める。

「きっと、眩しすぎるんだよ。…私には」

と呟くと、無性に悲しくなって、背を向けた。

そうして、本に向き合って再びぱたぱたと埃を払いはじめると、はらり、と隙間からカードがこぼれ落ちたのだった。触ると少しひんやりとして、透かし模様と銀の箔で飾られた文字をそっと撫でると異国の薫りがした。…悲しくなるほど綺麗だった。

しばらく眺めていると、突然

「こんにちは」という声がした。

後ろを振り返ると何時の間にか背の高い男が立っていた。襟の縁取りが金色をした燕尾服を着ていて、黒い靴はつやつやと輝いている。まさに新品そのもの、という感じだ。

「名前は?」やっとの思いで声を出してみる。

「そうだね…ベテルギウス、とでも名乗っておこうか」

そういうとポケットから眼鏡を取り出して、ぱきっとつるを折っていつの間にかに机に置かれている見慣れないカップに浸してひとまわし。ぷくぷくと音を立て揺れる茶色い液体は、少し薬っぽい、鼻に抜けるような少し辛みを感じさせる匂いが漂っていた。そしてほんのり甘い匂いは嗅いだことのある匂いに似ていた。

「それは、何ていう飲み物なの?」

私が聞くと、男は帽子を被りなおして少し眉根を寄せた。すると、折れていたはずのつるは元通りになって、彼のポケットに収まっていた。

「これはね、ホットチョコレートというんだ。卵とスパイス…そして、ほんの少しの好奇心で出来ているんだ。」

 

「そう…ありがとう。でも、あなたはどうしてここに居るの?」

すると男は頭を振って

「何もかもが簡単にわかるようで、実のところ、わからないことだらけなんだ。

ぼくは調べ方を知っている。けれどもそれは人に教えて身につくようなものじゃない、自分で掴み取るものなんだ。…でもね、誰もがその方法だけを人に教えたがる、果たしてそれは本当に『正しい』ことなのだろうか?」

「…あなたの言うことはわからない、でもね、わからないということだけは分かるのよ。」

「そう!それが『正しい』ってことなんだ。」

「あなたってふしぎ、ね」

いつの間にか、少しだけあった壁のようなものはなくなっていた。もちろん目には見えないものだ。

「君は、いっとう特別なんだ。だからこうしてぼくに会うことが出来た」

「…なぜ?」

「そのカード、君にとってはなんてことないかもしれないけれど…ぼくにとっては大事なそれを、見つけてくれたからかな。」

「でも、何が書いているのかは分からない。それでも…?」

「さあ、ぼくについて来て。」

差し伸べられた手を掴んだその瞬間、彼の袖口から銀色の液体がこぼれだしていく。

水たまりとなったそれはみるみる部屋のすみいっぱいまで広がると、壁を上りはじめ、やがてあたりを覆い尽くしてしまった。そしてぐわんと景色を揺らしたかと思うと真っ暗になって、あたりはもうすっかり、さっきまでいたはずの部屋ではなくなってしまっていた。

「ここは…どこなの?」

なにも見えない、なにも聞こえない。ただただ、底なしの、浮かんでるとも沈んでるとも分からない、ふしぎな、不思議な場所だった。

「これが、宇宙だ。今、君は宇宙に居るんだ」

「どうして?…どうやって?」

「うーん、ぼくはこの銀河に住んでいて研究をしているんだ。そのカードにも書かれてるけど、ぼくは助手を探していてね、君がなってくれたらいいんだけど」

「…それはまだわからないけど、考えておく。」

「じゃあ、紹介をかねてあたりを歩いてみよう!銀河にはいろんな生き物がいてね、きっと気に入ると思うよ」

そういってベテルギウスは前へ進んでいく。いや、進んでいく方向が前なのだ。ベテルギウスはうっすらと赤く輝いていて見失うことはないのだけれども、あたりをすっかり照らしてしまうほどの光はないのだった。

 

「もう少し前に来てくれれば、明るく照らすこともできたのだけど…」

とつぶやくベテルギウスの歩く速度に変化はないような気がするのに、距離だけはいつの間にかに開いてしまったり、縮まったりしている。もっとふしぎなのが、走るとより一層距離が広がって、歩くと距離が縮まって、でも立ち止まってしまうと、何故かベテルギウスよりも前の方で私が歩いているのだ。そんなことをしばらく続けているうちに、ベテルギウスが立ち止まった。何も変わったことは起こらず、傍まで近寄ることもできた。

「着いたよ。」

あたりを見わたすと、キラキラとした光の粉が散らばっていた。

「そうら、手を開いてご覧」

言われたとおりにしてみると、ふわんとミントのようなすうっとした匂いがしてきて、ぼおっと鈍く光る丸い形をしたものが、ゆうらゆらと揺れながら近づいてきたのだった。

明かりが近づいてきて、手のひらに乗っかったとたんにふっと光をうしなって、砂糖のかかった飴玉に姿を変えたのだった。それを口に放り込むと、最初は冷たくひやりとした感触だったのが、ピリリとした刺激とともにじんわりとした暖かさがやってきた。

「…不思議な味ね。」

「捕まえようとしても決して捕まることはないんだ、そう、そのままじっと待っていれば、必ずやってくる」

気付けば、金色の細かな砂はまるで川のような流れを作っていて、ピンクや黄緑色の丸い光があたりをふわふわ、ゆらゆら漂っているのだった。

「さっきまでは何もなかったのに…どうして?」

「君がここに居るから」

彼は、パチンと指を鳴らすと、被っていた山高帽子の中からうさぎが出てきた。ふわふわとしたその毛の先のほうは薄く光り、パチパチと小さな音を立てていた。そうしてぴょんと跳ねて肩に飛び乗ったかと思うと宙に浮いたまま、金色に光る砂の流れには目もくれずに駆け出していった。

「追いかけよう」

「もう少しここにいたいのだけど…」

「ダメだよ。もう時間がきてしまった。」

ベテルギウスはそう言いながらポケットから取り出した懐中時計とにらめっこをしていた。

言われるがままに手を引かれ走ると、歩を進める度にふわっと浮いていってそのまま、流れに沿うかのように流れる川の上を走っていた。決して触れることの出来ないその流れはまるで空をかける金色の龍のよう。

「…ナクラか、あれは実に惜しい事をした」

再びベテルギウスが口を開くまでは何も言わない方がいいのかもしれないなと思うくらい、とても寂しそうで、悲しそうな顔をしていたのだった。

うさぎは前を走り続けている、もしかすると追いつく事なんてないのかもしれない。

そうするとうさぎを取り巻いていた光がだんだんと強くなっていって、うさぎはやがて真珠色の大きな鱗で覆われた、魚へと姿を変えていった。びっくりするのもつかの間、

「え…?足が重たくなってきた」

息は苦しくない。だけれども、からだぜんたいが、まるで水の中にいるかのようなゆったりとした重さをまとい、踏みしめる度にちりりと泡が立ちこめ、そして目の前にはきらきらとしたシャボン玉のような泡の群れが進む方向を中心として拡がっていった。

「まるで泡のトンネルみたい」

幾重にも連なった泡のトンネルから透けて見えるのは、ゆらゆらと揺れるクラゲの群れだった。足の長いクラゲ、くしがたのクラゲ、ネオンでふちどりされたダイヤ型のクラゲ

形は様々だったけど、皆が思い思いにゆったりと、浮いたり沈んだりを繰り返していた。

「…私が、何か言葉を出したり、…思いつくままに話しをすることで、他の誰かを傷つけてしまうかもしれない、それがとても怖かった。」

絞り出すようにしか声は出なかったけど、今まで言えなかったこと、誰かに聞いてもらいたかったこと、それが言えたような気がする。

こんなにも悲しそうな顔をしている人に言う事じゃないのかもしれないけれど。

「でも君は大事なことを知っているんだ。

君が思い通りに使うことのできる、その言葉の重みを、そして何を知っていて、何を知らないのかということを。

違いというのは何も特別なことではないんだよ、

皆が同じであることを良しとして、始終目を光らせるあまり、ただがむしゃらに何を知らないのか、それすら隠してしまおうとするから、それぞれの違いだけが輪郭を持ってくっきりと浮かび上がってくる、それだけのことなのさ。」

ザザ…ザザ…という音が聞こえてきた

「…そろそろ来るころだと思ってたよ」

数百の、いや数千の群れをなしてやってきたバッタの群れ

その群れの中で一匹、いや数匹だけは他のバッタと同じようにインク溜まりが出来たかのように全身が吸い込まれてしまうかのような黒さだったけど、羽だけは、わずかに縁取るかのように、キラキラとしたネオンのような光で輝いているのだった。

「大丈夫、さして危険なものではないよ、だから大丈夫。ただ…数が多いのは困りものだ。」

「私はどうすればいい?」

「近づいてくるかもしれないけれど、その時は、大きな声を上げないようにすれば大丈夫だ」

どんどん ザザ…ザザ…という音が大きくなっていく

「あの虫たちはなにをしてるの?何故、あんなにもたくさんの…」

ベテルギウスは何も言わず、上着の内ポケットから小さなガラス瓶を取り出していた。目を凝らして見てみると、中に入った透明の液体は、傾けるたんびにとろりとゆれて真珠のようになめらかな輝きを放っていた。

そして下の方に沈んでいる小さな丸い球から少しずつ泡が出てきていて、泡がはじけるたびに白く濁ったり、透明になったりを繰り返していた。

「瓶はきれいなのだけど、はやくしないとこっちに来ちゃう!」

「よし…、もう良い頃あいだな。」

と、ベテルギウスは慌てる素振りすらみせないまま瓶をただ眺めている。

いよいよ黒い塊のような群れがこっちに向かってくる。みっしりとかたまっていて、ぶつかったら一たまりもないだろう。

「ほら、もう大丈夫。見てご覧よ」

そう言うと、コルクで出来た蓋を外し、勢いよく放り投げた。瓶はくるくると回りながら中身をあたりへとばら撒いてそのままゆっくりと止まることなく進んでいく。

すると瓶を中心に拡がっていた、うすく透ける白い水たまりのような広がりが一瞬透明になりチリチリと小さな音を立てながら、すぐに薄ピンク色の羽衣のような透き通った帯が幾重にも連なって、あたりに拡がっていったと思うと、また見えなくなり、そして中心に光輝く白く丸みを帯びたものが浮かびあがってきた。

と思うと、そこに一斉に黒いバッタの群れが一斉に集まっていく

まるで強い磁石がそこにあるかのように、あるところからぴたりとみんながみんな方向を変えていき、大きなうねりとなったその群れはまるでそれそのものが一つの生き物のように大きな口を開けて、その小さな光を丸飲みした。

わしゃわしゃという音がしばらくしたかと思うと、光はだんだん勢いを失って、そして消えていった。

「あいつらは、光を食むんだ。自分で光ることが出来ないから、…そうして食らい尽くしてしまったらまた別の強い光を探しに移動を続ける。そういう生き物なんだ。」

「…でも光がないと」

「どうしたの?言ってごらん。」

「光がないと、そもそも暗いということも分からないものなのかもしれないなって、全部ではなかったけれど羽がほんの少し輝いていたバッタも居たんだもの。もっと輝きたくて、強い光を探しに行くのかもしれない。」

「…君みたいな考えの人もいるんだね。決して忘れてはいけないよ。」

「忘れしまうって、どういうこと?」

「それが『正しい』ということの恐ろしさでもあるんだ。そして僕は『正しい』とは何かを考え過ぎたのかもしれない。」

「疲れてしまったの?」

「…そうかもしれないね」

「でもふいに、正しさの本当のすがたというものが分かりかけてくることがあったんだ。ほら、こんな風に」

そう言うと人差し指だけ浮かせ、自分の顔よりも高く、上の方へと手を伸ばしていった。

するすると指の節に、靄が集まりはじめ、やがてそれは蝶の形へと姿を変えた。

「でも蝶はすぐに消えてしまうんだ。」

そう、こんな風に

人差し指を軽く跳ね上げると、蝶はゆるゆるとほどけていって再び靄のかたまりになり、そうして透明になり、あとかたも無く消えてしまった。

「だから耳で音を一音、一音聞き分けるように、言葉を研ぎ澄ましていって、心の中にある声を怖がらないで思うように書いてみるといい」

心の中にある声…。歩いてみても、この暗闇の中では足元も見えなければ、足音も聞こえてこない。いったいどうすればいいのだろう。とぼとぼと後ろをついていくことしかできないでいた。

「おや、どうやら着いたみたいだ。ここが僕の研究所だ。」

「うわぁ…見たことのないものばっかり」

気を持ち直して、辺りをきょろきょろ見わたしてみる。これは何?と聞くそのたびに、ベテルギウスは一つ一つ指さしながら丁寧に説明してくれた。

「これはエバポレーター、なんというか…古いものだから使うのにちょっとだけコツが必要でね」

そう言って丸底の茄子に似た形をした硝子瓶を取り出しながら、白く輝く真珠色の液体を流し込んでる。

「よっと、さっき一つ無駄にしてしまったけど、あーでも、…まあ仕方ない。」

慎重に器具にとりつけてスイッチをつけたとたん、機械はごうんごうんとものすごい音を出しながらも茄子型のガラス瓶だけは静かに回っていた。

「まあ、いいんださっきのは均一になっていなかったからどうせ、失敗していたかもしれないし、…いや待てよ。あるいは均一じゃない方が成功するのかな?」

何やら一人でわけのわからないことをぶつぶつと喋っている。

あんまりな様子を見て溜息をついたあと、ふと、壁に飾っている様々なものたちを眺めてみる。大きな地図に、壁に掛けられたたくさんの道具たち、ブリキで出来たかばん、二重のわっかがしまい込まれた大きな虫取り網、ぱんぱんに膨らんだリュックサック、そして色んな額縁が飾ってあるそのなかに、あの蝶に似たものを見つけた。

「…これは標本なんだ」

作業の手を止めてベテルギウスが喋り出す、

「ひょうほん?」

「この蝶は標本としてしか形を留めておくことは出来ないから。」

「消えてしまう前に、捕まえておけば大丈夫なんだ!」

「けれども、このように額縁に留めてしまったらそのものとしての姿を見ることは出来なくなってしまうんだ。思い出すことは出来てもね。」

「でも姿をみることは出来るじゃない。どうして新しい蝶を作りだそうとしたの?」

「…悲しまなくて済むからだよ」

「悲しいの?」

「羽がかけてしまったり、色あせてしまったり、それは避けられないことなんだ。でも…」

「…でも?」

「こうやって額に飾った蝶を眺めて、いつか巡り会えるかもしれない新しい蝶のことを考えていると、幸せなんだ。」

「新しい蝶を作り出すのは大変じゃないの?」

「そんなことはないよ、…いや作りだすのが楽しいと思えるから、ここにいるんだ」

こつこつと頬になにか当たってくる。

「あ、さっきの魚に似てる…」

ひゅっと尾っぽを翻して細かく彫り物がされた額縁へと飛び込んていく。

ちゃぽんと音を立てて水しぶきが散るのだけど、やがてゆるゆると元の額縁に収まって、元通りになるのだった。

「…外に出てみようか」

「いや、いいの。もう少し魚を眺めていたいし、私ここにずっと居たいって思うの」

するとポケットからかさり、という音が聞こえた。不思議に思って手を伸ばしてみると、

突然かたかたと額縁たちが揺れ始めた、魚たちも額縁から尾っぽを覗かせたり、ひっこめたりを繰り返している。そうしていくと、急にぐわんと風景が揺れ始めた。

「…おや、時間が来てしまった。君は、まだあちらでやるべきことがあるみたいだね。」

「そんなことない!だって…」

「ぼくは、いつまでも君のことを待ってるけど、どうして今はその時でないのか、君が一番よく知ってるだろう?」

という声とともに、景色は目まぐるしく変わっていく、巻き戻されたかのようにぐるぐる、ぐるぐると、そうして銀色の光に包まれると、いつのまにかに眠ってしまっていた。

目が覚めるといつもの部屋に居て、開いたままの本と、カードの代わりにしおりがページの中央に収まっていた。

「そういえば、あの紙は!?」

あわててポケットの中に入ったままの紙を取り出す。ママと食べたフォーチュンクッキーの、あの紙だ。

「楽しいものを探しに行こう!」

と書かれていて、その文字を指でそっとなぞった。

 

汝、悪辣を好まんとす-因果の小車によせて

蜘蛛の糸、という妖しきお伽噺があったそうな

最期の時、地獄に墜ちてゆく我が身を憂う時に、お釈迦様の御慈悲によって

選ばれた人間にだけ、与えたもう恩寵とも云われているのだった。

カンダタというのは、愚か者でせっかく選ばれた身だというのに当初の目的よりも、自分だけが助かりたいという欲を優先してしまったので、たった一本の糸にしか見えない悟りの糸を切ってしまって元の通りに地獄で過ごすことになってしまったのだと言われているのだった。

汝、悪辣を好まんとす。

生まれた時からそうだった。

目の前に居る何かが、私の行いに対して何かを叫んでいる、ただそれだけのことなのだ。何故なら私は選ばれた存在なので、何かが何を云ったとしても関係ないことなのであって、台風のようなものだ、私はその中心に居る。

ああ、台風が過ぎた、物乞いになろう、寝たふりも病気のふりも身に沁みついて、誰もそれが本当であると思うのだから。

ああ大衆へ憐れみを乞おう。近づいてくる奴らを一飲みにしてしまうよな哀しみで、振り上げた拳を思わず降ろしてしまうような騒々しさで。

ああこの世は地獄なのだから、きっとあの世の地獄は安泰だ。

同じ地獄なら、現世を地獄にしてしまえばいいのだ。

きっと、私はずっと一人なのだから、近づいてくる人をひとのみにしさえすれば安寧だ。

ああどうして人の叫びは、現世を嘆き、来世への更生を誓うのだろうか?

悪に染まりきれば、天国に行けるのだと、

因果の律だ、混沌に身を置かれればそれに慣れてしまえば我が身はまるで凪の如く。

時々、聞こえてくるさざ波に耳を傾けずとも

然るべき時に然るべき判断をすれば順風満帆だ。

滑り落ちる、航海士の行方はいざ知らずとして、

何故なら、説法は好まない、コンパスも、海図もない、声に従うのみだからだ。

 

ああ物差しが啼いている。撓るように呻る竹の物差しだ。

物差しは秤を間違えない。そういうものなのだと、痴れ者は思い知ることとなるだろう。

糸は手繰るものだ、よるものだ、きれないように、ゆっくりと調子をあわせてよるものだ。決して縋りつくようなものではない。

そういった特性すら気づかないから、糸が、ああ意図がきれたのだ。

ぐるぐる回るあの小車に、あの因果の小車に絡めとられてしまえば終わりだと思ったのが間違いだったのだ。

身を委ねられないものは、糸が、ああ意図が手に絡んで離れない、調べ物をしていても、ああ、慣れない。そしてあのような静謐さを得ることも、ああ為れない。

全員ではなく、独りだけ助かろうとした者たちの、嘆きの声は因果の小車には聞こえない、かたかた鳴る因果の小車には聞こえないのだった。

そうして元の通りに、小車は小車の役割を果たすのだった。

 

 

 

連作群

白と灰色

しろくつめたい壁の向こう側、カーテンを隔てて
透明な人たちが横たわっている。

静寂、ややあってパルス、また静寂。そのくりかえし

ーーー脆弱な、けれども静謐な不安の中で時を、ただ時を刻みつける。
瞼を腫らした人たちが群れている。
壁に佇む絵画の光は、人々の心を照らすこともなく
ただ、壁の染みのような、ひと拭いで消え去ってしまうかのよな
ちらちらとした灯りであった。
人は人を呪うのだ、時に人は静謐を求めるのだ。
しかし、ただ不安のままに囁く人の声は
願いを繰り返すばかりで、手をこまねく灰色の亜の群像に掻き消えゆくのだった。

微弱、ややあってパルス、バイタルサインの徴

人びとは、安堵の溜め息を漏らし、散り散りになってもとの群像へと姿を変える。

時折耳を劈くかのような咆哮があってひとたびの静寂を乱すのだが
その繰り返しのただ中に、亜の人びとはいて、
時に祈り、時に天を仰ぐなどしている。けれども、何事もなかったかのように亜の人びとは散り散りになって、
ただの宴だったのかと酷く落胆するばかりだった。
穿たんばかりの、かの思いはアスファルトの染みとなり、ただいっさいを吸い込んでゆく。
水浸しになった紙切れが、嘆いているよ、グレーの涙をはらはらと流しているよ。

習作 8月によせて

赤錆の 姿留めし 人の影
  あの日の記憶 千々と消え逝く

日喰む雲 見上げ零るる 黒い雨
           枯れ木となりし 腑に染みいる

肺腑を屠る 洋芥子(マスタード)瓦斯
                   黒壁の名残り 消えぬ足跡 

壁穿ち 姿留めし  ドーム館(だて)
  黙(しじま)にあわぬ ファズヴォイス 

鳩舞う空を 仰ぎ見ゆ
  夾竹桃  知られずとも 花はまた咲く

既に七十過ぎ去りて
行き交ふ人の  
黒の黒さを、白の白きを

黄金いろの並木

風吹き荒ぶ煉瓦道を僕は独り歩く。
身体の芯まで凍えるような風だった。行き交う人は皆俯き加減で
師走間近の喧騒を引き摺った、重たい空気がそこには在った。
己の吐き出した呼気が澱んだ空気をさらに、澱んだものへと変えてゆく。荒れ狂う風は、その濁った空気を決して何処かへと連れ去ってはくれず、ただ人びとを縮こませるだけの、つめたい風であった。

僕はというと、空っぽの瓶を手に持っていた。
甘やかな香りを放つそれに、僕は抗うことが出来ないでいた。
空っぽになってしまったことは分かるのだが、いつから空っぽなのか、それは何時迄も僕に付き纏う永遠の謎であった。僕は、ただ歩き続けることしか出来ないでいた。
じくじくと足が傷むのも構わず、彷徨い続けていたのだった。
ふと見上げると黄金いろの樹々が、はらはらとその一ひら、一ひらを落としていた。
そのふかふかとした、けれども少しくすんだ小高い丘のようなところに、点々と小さく丸い何かが見える
僕はあえて近づいて、きっ、と鼻につくそれを眼に捉える。
しわがれた、饐えた臭いのするその実を足で潰す。ただ足の平で潰す。
堕落の証だ、腐敗の徴だ、
潰していくうちに、翡翠いろの何かが見える、でも僕はそれを綺麗だとは、とてもじゃないが、思えない。
ただ哀しくなるのだ、
やがて眩暈するかのような心地がして、
己の腹からようやっと出したものは、
酷く饐えた臭いがした。
僕の哀しみと引き換えに、生み出されたのは、
ただただ醜い、それだった。

怪・智恵子抄

なさけない空のはなし
 

智恵子は東京には象徴が無いといふ。

ほんとの東京がみたいといふ。

私は驚いて行きかふ人たちを見る。
人いきれの中に在るのは
吹けば飛んでしまうよな繋がりの中で
つめたくて、けれども綺麗な格好をした人たちだ
人生は一行のボオドレエルに若かないと
誰かが云ったけれど
ガードレールの下には絶望がぽっかりと口を開けて待っている
きらきら、てかてかとした明かりに目が眩んだ人の、心を慰めるのが軒下の暗がりだ、
ボオドレルは暗がりの暖かさを教えてはくれない
寒々とした人だかりの中から外れたとこにある、その暖かさを
智恵子は遠くを見ながらいふ。
変わりゆく町並みの
そびえたつガラス張りの、
ああ中に人がいたんだっけ
それがほんとの東京だといふ。
空を覆い尽くすよな、でもそれが空だといふのである。
 
林檎哀歌
 
こんなにもあなたは林檎を待っていた
煌びやかなショーケースにきちんとおさまって
わたしの手からとった一つの林檎に
あなたの綺麗な歯が触れるのを、ただ見ていた
五色の香気が立つ
その数滴の人の気まぐれのようなもので
ぱっとあなたの意識は’それ’へと向かった
あなたの青く、そして澱んだ眼が笑みを捉える
わたしの手を握るあなたの力は、ただ一度の力強さでしかなくて
今、あなたの咽喉に嵐があって
こういふ世の瀬戸際に
智恵子はまるで別物のようになって
生涯とも云える熱意を一瞬に傾けた
それからひと時
日本でした、というような知らせを聞いて
周りの雰囲気ががらりと変わった
写真の前に積み重なる問題はさておいて
すずしく光る林檎を今日も眺めよう

OK、暴虐人はそれを喉から手が出るほど欲しているよ

指先一つで人が動く様を、この上ない悦びとするのか

人を突き動かすのは、「それ」を創り出すことへのこの上ない歓びだと云うのに

ただ人を、その背後に隠したこの上ない恐怖をちらつかしさえすれば

また巨万の富を得ることが出来ると嘯けば

人をどうとでも動かせると勘違いしている。

ああ、それがこの上なく卑しいことなのだと、気付かずに

かの人は指先一つでどうにか出来る何かを探し求め続ける。

そうしてその果てに遺されたものは、慰めを許さず

やがて来る孤独の日々に、かの人を閉じ込めるのである。

デイジーはきっと、答えない

ぼくのショートケーキにのったイチゴをそっとかのじょのお皿にのせてあげるようなそんなささやかな幸せを願っていたのに、
ある日かのじょはこう言い放つと、ぼくの前からいなくなってしまった
「あなたは、わたしのこと決して見てはくれなかった。…そんなあなたと一緒にいるのが疲れたの、」
ああでも、確かにこの思いは本物だったんだ
もしかすると気が狂いそうなほどに君に夢中だったのに
「デイジー、 デイジーどうか答えておくれ」
話し相手のいないぼくはSiriに話しかけてみる。
”デイジーに関する情報がWebで見つかりました”
ちがう、そうじゃないんだ
君までもぼくを拒むのか?

ぼくはそっとiPhoneの電源を落とす、もう君の声を聞くこともないだろう

誰か答えて欲しいんだ
僕には何が足りなくて、何をすべきなのかを

ーああ、気づいてしまったの、
かれは私を愛おしそうに見つめるのだけれども、見つめる先に私は居ないってことに

もちろんかれは穏やかそのもので、申し分ないのだけれども

でも私の寂しさには気づいてくれなくて、一人だけ楽しそうにして、置いてけぼり

だから私は探すの、蝶のようにひらひらと舞って「わたし」をみてくれるたった一つだけの花の方へ

デイジーはきっと、応えてはくれない