細波が引いてぼくは手に持っていた本を静かに閉じた
寄せては打ち返す波のただ中に居てただ一つ変わらない松明の灯を眺めていた
そんな中でぼくは、彼女に出会った
鈍く光る彼女の姿は話しに聞いていた人魚の姿かたちとは異なっていた
ぼくは彼女が話が出来るのか出来ないのかお構いなしに
隣に座ってとりとめのない話をする事にした
背中合わせですぐ傍に居るのに、相容れない隔たりはいくら時を重ねた所で普遍的に存在する見えない壁のようなものに遮られる
彼女はそんな存在だ
だからこそ言えるようなこともあるんじゃないかとぼくは思うのだった
「…洞窟のイデアってしってるかい
足枷をつけた人々が洞窟の中で暮らしてて
暗がりの洞窟を照らし出す唯一の松明に映った何者かの影を人々は恐れるんだけど
それは自分の影であって、つまりはまやかしに過ぎないんだよ
でもまやかし程人は恐れるもので
すぐ傍にある足枷には気付きもしないでただ騒いでるんだ
それはつまり…早く気づくべきなんだって事だよ
ぼくの祖父は人魚姫の話をとても楽しそうにしてて、
どこか遠くを見つめた風に、幸せそうに
だからぼくもそういうのが見つかれば良いのになって
ほんとうのさいわいなんてわからないけど
ただ、あそこはぼくが居てもいい場所なんだって
そういう気がして
実際あの時のぼくにとって人魚姫がいるかどうかは重要ではなかったんだ、…店主に会って何かが変わったのかな
…おかしいと思ったんだ
ぼくは記憶を喪っていたのだけども
掻き集めた欠片をいくら繋ぎ合わせた所でそれは前のぼくじゃないってことは分かったんだ
でも何回も何回もそれを繰り返した事は、やっぱり無駄じゃなくて
その分ぼくは、
少しだけ、今まで目を背けて見ないふりをしていたものと向き合えるような、
そんな気がして
…そして、ぼくと一緒にいたあの二人は、見知らぬ人が久しぶりに店にやって来たあの日に
…死んだってこと
そして店主も居なくなってしまったってこと
そして、店主は単に利用されただけで、
…それはあのアブサンに関係する事で
かれに会わせてくれたのは…君だね?
イデアって呼ぶね、これからは
………洞窟の方みてるからイデアっていうの、
ちょっと単純かな…?」
ぼくはかのじょにイデアと名づけることにした、名前も教えてくれなかったから
ぼくに特定の名前を考えるだけのセンスはない。
もしかしたら女性じゃないかもしれない、人魚姫の世界のことはわからない