自己を苛む身体への違和感
それはやがて、身体の枠組みを越えて性別のカテゴリーを作り変えんと欲するまでに肥大化する。
自己に対する奇妙な感覚、それは決して他者を侵害するものであってはならない。
自分の身体を作り変え、名前を変え、戸籍を変える権利は既にあるのだから。
善悪の物差しは他者の眼差しあってこそ成立するものであり、客観性によって担保された秩序ある善悪の枠組みの中に収まりきらない自己が対岸から、そのさまをきっと見つめている。眼差しは怒りを伴うか、憐憫の情を伴うかで異なってくるだろう。
その怒りが自己に向かう時は正義という
その憐憫の情が自己に向かう時、原罪意識となる。本来はそうであるべきなのだ。
他者のまなざしによって成立する世界において、判断の正しさというのは、感情の色を伴わないものである。
やがて自己へ向けた怒りの眼差しが、憐憫の情が我が身を苛むとき、その矛先は他者へと向かう。
剥き出しになってしまった情は智を捨て去り、血を求め、色を帯びる、他者への支配欲や情欲が綯い交ぜとなった…すなわち色欲である。その価値感覚は、他者依存的、と言っても主観に支配された他者に依存的な態度であり、単に視覚情報的な世界観によって成立しているに過ぎない。手当たり次第に周りを頼り、周りの人の表情から敵味方を弁別し、極端に浅い思考からくる自己欺瞞にも似た思い上がり、自分は相手を支配しているという根拠のない思い込みによって成り立つ軽薄さ。
倫理や道徳観は、他人の権利を尊重する意識によって醸成されるべきである。
ことのあらましは著述されなければならない、醜い意識ごとぜんぶ。
どちらでもないというのは、曖昧であることを余儀なくされているのではなく、これ以上考えたくないという思考の放棄である。
奇妙だな、というさわりだけで考えるのを止めてしまっていることに対する弁明すら存在しない。
その違和感の所在地を明らかにしないまま、強い言説に流され、つまみ食いのように意に沿う、沿わないかで判断し自己を分類する。最近流行りのMBTI診断がそれだろう。
日本のクィア観における性別に対する意識は薄い。
空気が読めるかどうか、場にそぐわないかどうか、均質性に対する意識の強さは、自己に対する意識の曖昧さに通じる。
本来は性別に対する違和感からくる社会運動は、個人の権利意識や性別に依らない社会的責務に関する社会的通念を引き上げるべく存在しなければ、クィアという言葉、概念そのものが社会に不要なノイズだろう。
権利の主張そのものが他者を侵食するかのような脅威になった場合、排斥に向かうのが真に倫理的な社会であるからだ。ゆえにテロリストは政治的立場を明確にしないまま犯行に及ぶ。犯罪者個人の政治的立場を明らかにすればするほど、属性そのものが排斥の対象となる。しかしながら、属性についての理解そのものを社会が拒んだ時、社会が個人の属性によって「判断」するときの公平性を妨げるだろう。
故にどちらでもない、という意識は内省的な自己憐憫の情であり、正義とは、正義を主張する時には感情的な憤りを伴うべきではないとなる。
私達は「終わりなき闘争」から目を背けていけない、闘争の本質を見定めなければいけない。
哀しみを享受するその気持ちごと翳りを帯びてしまうから。終わりなき闘争が妄言となる日を願わずには居られない。