多感作用と誰が為の共感

萊草唳の創作雑記

ほしのにんぎょひめ 蒼眠る

「お前さえ来なければ 疑われる事はなかったのに
 どうして酒場なんかに来た」
いきなり腕を掴まれたかと思ったら第一声がこれだった
「てめぇ…」
ぼくは何の事か分からずただ、その場で立ち尽くしていた
「俺は何もやってないんだ
 何も、…そうおどけてみせたのにあいつらは信じちゃいない。
 なのに今俺はこうして疑われて、挙句警察に知られたのはお前のせいだと、云うんだ」
「俺はただ、客を選んで祠に連れてくだけ、それだけでいいって言われ続けてやってただけだ
 見ろよ、酒場に屯してたあいつらの顔を!!
 なんてことのないただの腑抜けだと思っていたが
 あいつらより、俺のやってた仕事が大したことないって知った時は絶望したね!!
 あんなやつらの足元にも及ばないのかっていうのか、俺は、、
おしまいだ!!」
感情が高ぶっていて誰かとぼくを勘違いしているその男は
確かに、死んだ筈の男だった。
 
「おい…お前らそこで何をしている」
そして次に来たこの男もぼくの知っている…いや二人とも良く知った顔だった
ぼくは何を見ているんだ?
二人が死ぬ前の光景を?
「お前もか、お前いっつも酒場で斜に構えているけど
 俺の事を見下してるんだろ!?そうやって、、
 余裕そうな表情で
 お前のせいだ!お前さえ居なければ俺は…俺は!!」
 
 あ、と思った時にはもう遅かった
もつれた二人の身体は崖から真っ逆さまに落ちていった
 
 
 
 

ふつふつと湧き立つ泡はやがて色を帯びて鮮やかな藍色へと変貌する

意識が、波に融けた
 
 

其の猫はただ一度限りの生を生きた

我輩は猫である
名前というものを知らない
否、名前というものがあってはならないのだ
或る猫はこう言うのだ
「帰る場所があるというのは良いものだ、君はなんとも可哀想なもんだね
日がな一日其処で暮らさずとも頃合いを見計らって戻れば家の主に歓迎されるのだ。得する事はあっても損をするという事はない。」
私は答えなかった。
その猫はやがて天寿を全うし、主人の元で手厚く葬られる事となったらしい
なんとも幸せな猫である
また或る猫はこう言ったのだった
「私はもうあんなところには戻りたくはないのだ
何か気に入らない事があれば、物を投げつけてきたり
日がな一日怒鳴り声が聞こえて安らぐ事はないのに、其処に戻らないとまた食べる物が無くて戻って来た時に怒鳴られるのだ
何故彼処にいるべきなのか分からない。
君の事が羨ましくて仕方ない
自由に生きれたら、と思うんだが
どうかね君の暮らしは」
私は答える事が出来なかった
その猫はやがて痩せ細っていき、日がな一日を過ごしていたとある場所で其の生を終えたという
ただ最期が安らかである事を願うばかりである
自由に外出を許されていたのは幸いであった
これまでたくさんの死を目の当たりにしてきたが死というものはいつまで経っても分からないものである
路傍に横たわる骸は、それがかつて生きていたものだと気づくには遅すぎて、そして長い年月の間に痕跡もなくなって遂には土へと還るのだ
一つだけ分かるのは
ただ死というものはそれを目撃するものが居る事によって謂わば完成するというのではないのだろうか
痕跡から、記憶から、思い出し語り尽くす事の出来ない様々な事象から漏れ出す透明な沈黙が
やがて一つの物語となって一人歩き始めるのである
零れ落ちた忘却の残滓によって次第にその実像を曖昧で、酷く不明瞭なものへと形を変える前に
語り尽くさなければならないのである
流した悲しみがすっかり洗い流されるまで
彼方に押し込めた痛みがやがてふとある時に生々しい記憶の洪水を伴って息を吹き返すとき
それを止める手立てはないように、語られなければいけない事は確かにあるのである
やがて私の身体も朽ちるのだろう
場所はここがいいに違いない、
いや、長年街を歩き続けてここがいいに違いないと思い立ったのだ
見つけてくれるのなら人間が良い、
それでは、さようなら





ほしのにんぎょひめ 三重点

とある痕跡を探す為ぼくは祠のある崖の上に来ていた
岩に激しく波がぶつかって飛沫を上げながら寄せては返しを繰り返してる
微かな塩の匂いとそして松明が焼けた燻した匂いが綯い交ぜになって
吹き荒ぶ風をより一層物悲しいものとしていたのだった
この土地は日が落ちると暗くなるまでの時間は短いのだ、とにかく急がなくてはならない
あの時のぼくは何も知らなかった
いや、何も知らない事が重要だったのだということを今は知っている
そしてその掟には綻びが生じてしまっていそこから
ぼくが知ることとなってしまったのだけど
それは幾許かの年月を経て再び舞い戻ったあの酒場から始まった
僕はあの時の事を俯瞰的に思い出して居たのだった
あの時店を訪れた旅人の顔を僕は思い出せないでいるけれども
やりとりだけははっきりと記憶しているのだった
でもアブサンの味は
店を再び訪れた時には店主も、店の様相も全て変わってしまっていて
アブサンが示す唯一の手がかりは永遠に失われてしまったのだと
僕は気づいてしまった
そして「彼」とのやりとりが
真っ新だった僕の心を捉えて止まない衝動となって僕を突き動かしているのだった
と、突然何か強い力で後ろに引っ張られたのだった
しまった、と思った時にはもう遅かった
そして聞き覚えのある声が

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

とんでもないミスを冒してしまった
あの酒場に居た人間はあいつらを除いてぐるだったのだ
時折二人組でやってくる、あの冴えない二人組
アブサンが何だって言うんだ
俺はただあの酒場に来た奴らを選別するだけでそれ以上は何も知らされず
はっきり言って蚊帳の外だった
お前にしか出来ない仕事があると言ったじゃないか
そして金儲けが出来るとも
全部嘘だったのか
なら仕方ない
残された手段はただ一つだけ
奪うのみである
何もかも与えられないのなら、そうするしかない
うまい話をしておいてこの仕打ちはないじゃないかと思って
あの日人が集まっていたところに忍び込んだのだが
うっかり松明に足を引っ掛けて倒してしまい動揺しそのまま逃げてしまった以外にまだ何も成果は得られないでいた
「くそ、何で俺ばっかりこんな目に遭うんだ畜生」
しかし今日はことの他良い客に巡り会えたような気がする
あの酒場に新しい人間が来たのは久しぶりである
もし人魚姫の伝承につられてやってきたのであればうまくいけばこちらの味方についてくれるかもしれない
「これからどうにでもなるさ、俺に出来ない事は何もないのだから」
獲物に向かって、走り出す

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
儀式が失敗に終わってから
しばらくは酒場にすら足を運ぶことも無くただ祠の近くに座って海を眺めてる時間の方が長くなっていた
自分はどうなってしまうのか
海の寄せては返す波が元の波でないことだけは確かなのである
その水がどこから来たのか、どこからどこまでが波なのか、返す波は打ち付ける水の大きさと全く同じなのか、そうではないのか
海は揺れる、波間に漂う切り落とされた藻は其の行方を知らせる事はないのだった
今居る自分が儀式が失敗に終わった後どうなってしまったのか
どうなってしまうのか
前例のないことである
誰も教えてくれる人はいない
あの日出会った少女は
人のような形をしてはいるものの、確かに人では無かった
言葉が通じるかどうかすら分からない
ただ青白くにぶく光るその姿は確かに実在したのである
これは彼岸と此岸の隔たりの掟を破ってしまったことへの罰なのだろうか
あの少女は神殿に居た巫女と何か関係があったのだろうかといくら考えを巡らせても検討もつかないのであった
酒場ではいつものように酒宴に加わっていたものの気もそぞろで酒の味すら思い出せないでいた
今日は珍しく客がやってきたので店主もあの男も意気揚々と応対していたのだった
あいつは何でも手荒に事を進めようとするからいけすかないと思いはするものの
店主ともう一人の男が気がかりで酒場へ足が遠のくどころか
都合をつけてはほぼ毎日通い詰めるほどであった
儀式の事を知られないようにするためには側にいるのが一番だと考えたのである
前に人魚姫を見た、と言われた時には肝を冷やしたが
どうやら話をよく聞いてみると彼の祖父から聞いた話であり、
またもう一人の男の話はどこか話がちぐはぐで要領を得ない話であったのでそのままにしておいたのであった
本当の伝承自体が外部に漏れさえしなければそれで良いと
その時は思ってしまっていたのであった
「一体どうなってしまうのだろう」
何回呟いたか分からない台詞をまた吐き出して

と、どうやら祠付近の崖から人の話し声が聞こえる
話してる調子からただならぬ雰囲気を感じる
一体何が起こっているのだろう
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「おい、お前」
どこかで聞いたことのある声だった
だけどそいつは確か海の事故で死んだ筈の男の声だった




ほしのにんぎょひめ fight or flight

「お前か、なあ、お前だったんだろ
  伝承にあった巫女っていうのは
  何が望みなんだ」
松明はすぐに灯されたが
儀式が失敗に終わったのはこれが初めてだった
外で踊りを供していた人達も気にするなと言ってはくれるもののどこか笑顔が引きつっているのだった
茫然として岩場に腰掛けていた間も片付けは粛々と進み
今の今まで一人きりで海を眺めていたところに「それ」は現れたのだった
ウロコで覆われた、白くにぶく光る
人のような姿形をしながら決して人ではない
人魚姫という名前が似つかわしいような「それ」
「なあ、やっぱり儀式が失敗した事と何か関係があるんだろ?
俺はどうなってしまうんだ?
…やっぱり死ぬ、のか?」
「………」
少女は喋らない、
何故ならコエラカントゥスから言われたのは勿論、人間と決して言葉を交わさない事を心に決めていたから
また少女は沖に出てすぐ人間に会えた事に安堵してもいた
「俺だけならまだ良いんだ、
でも此岸と彼岸を結ぶのに必要なのは二人なんだ
もう一人はその役目を知らない、いや、知らない事が重要なんだ
だから、俺はあいつにあの酒場でまるで人魚姫の事なんか興味ないみたいに振舞って
あいつが儀式に必要な事全てを知ることがないよう見張っていなければならなかったんだ
けど、もうそれも意味ないんだな
はは…」
少女は驚いた。
普段ならそんなに雄弁家でもないようにみえる初めてあった人間が
こんなに感情的になって話をし始めるのだ
私の知らない話を
お喋りなお姉様方はいつも取り止めのない話をするのだが
私が嬉しそうな顔をするとにっこり笑ってまた楽しそうに話をするのだ
だから少女はにっこり笑う事にした。
それ以外に思いつかなったから
「笑っ…そうだな、落ちつこう。
あいつに接触したのは儀式を滞りなく進める為だったのに
…不思議なもんだな
あいつは居場所を探してた、
でも気づいてないんだよあいつは
自分自身が居心地の良い場を作ってるってことに
神事の準備の度に話し合いが行われたけども
彼処に俺の居場所なんて無かったよ
重要なのは役目であって、俺じゃないんだ…俺じゃないんだよ
だから、人魚姫を見た事があるっていう言った奴が出てきたのには焦ったよ
いつ儀式の事がバレやしないかとか
そして変わっていく街の様子も
町おこしとか言いながら昔からやって来たこの儀式の事だけは話せないから
…だからかもしれない
人魚姫を見た事があるって言った奴らの中には不審な奴がいっぱいいたんだ
俺にはどこか変だという事ぐらいしか分からない
毎日不安だったよ…
そう不安だったんだ」
少女は初めてあった人間がこの男であった事に感謝した。
皆不安なのだ
不安を押し隠してそれでもどう振る舞うか、
それを教えてくれるような気がして
少女は岩場に腰掛けて洞窟の様子を眺める事にした
また、同じ男が現れて話をしてくれるのを期待して






ほしのにんぎょひめ 紅穿つ

晒し去らせや曼珠沙華

しほたる雫に来しむ声

晒し晒せど尽きもせず

酔いも巡る宵闇の

其処彼処に帰し方来方

あれ見やるに畝掘り田掘り

死をやる涙はせんかたなく

 

紅拡がりて見知らぬ気色

拓けや拓け

興せや興せ

しほたる雫は一時なりやと

声聞こえる

拓けや拓け

晒せや晒せ

 

晒し去らせや曼珠沙華

拡がる紅が追い出したるは

あれ見やるに背け花向け

酔いも醒めぬ宵闇の

其処彼処に手招き間引き

あれ見やるに水張り田掘り

紅発つ涙はせんかたなく

 

いつだって物言わぬ者から先に虐げられてきたのだ

今に伝わるこの歌がそれを教えてくれる

ならば今舞台に立つ自分はどうなのか、

与えられた役目を、ただ果たすのみである

生まれた時から決まっていた事ならばそれを甘んじて受け入れるしかないのである

他に何があろうと、これだけは守らなければ

また滞りなく行わなければならない事なのである

一歩進めば振り返り、二歩進めば睨みをきかせ、三歩進めば見栄をきる

観客はいない、自分との闘いである

ただ動きの精緻さだけを追求し、粛々と行うのが習わしである

洞窟の狭い道を進むのだが

外の様子は洞窟の中からは窺いしれないし、また、洞窟には使者となった人間しか入る事を許されないので

外の者共は彼岸と此岸を渡る使者となった遣いを待ち構えている

この時決して外にある松明の火が絶やされるような事があってはならないのだが

この年その禁を破った者が表れた事から綻びが、生じた

何も知らない、若者だった

そしてその稚拙な役者の企みが本懐を遂げる事も無かったのであった


 

ほしのにんぎょひめ 泡となった少女

何事にも犠牲が必要なのだと皆は云う

祭事の取り決まりにより

巫女となってこの身を神に捧げよ、それで丸く納まるのだと

皆は云う

この役目は光栄な事だと、

素晴らしい事だと羨望な眼差しを向ける人がいる一方で

毎日この神殿を訪れる人の中には

己が娘にその役目が来なかった事を安堵しているかのような人も確かに見受けられるのだ

綺麗に飾り立てられたまま椅子に座り刻一刻とその時が来るのを待っている

私ぐらいの娘達は嫁入りの為に誂えられた衣装を矯めつ眇めつしているのを尻目に私だけがその場から動く事を許されなくて、

ただそこに居る事を命じられている 

荒事に女は不要だと云うが西国より伝え聞いた伝承には必ず女が発端となった戦があるのだ

投げ込まれた黄金の林檎は知恵の実ではなかったのだ

人災は天災よりも実に些細な事で厄介な荒事を引き起こす

この手元にある人魚の涙というものもそんな代物である

願いを叶えるのでも

万物に勝る宝物でも

不死を齎すのでもないこの代物は

ただそこにある事が重要であるのだという

己が未来をただ照らし、屈折させる物なのだと

其れが示すのは可能性であり、真偽のほどは定かでないと

境界線に存在するのは臨界点であり、帯のように存在するのだと

付帯するのであってそれは相対的にしか計れないものであると

謂うのだった

私には分からないのだ

犠牲が犠牲として容認されうるのは

それは当人が自分に言い聞かせるように

ある種の諦念を帯びてこそ真価を発揮するのであって

犠牲を強いる側が用いてはいけないことなのではないのだろうか

それでも神事は終わらない

それが昔から決められた決まりだと云うのだから

諦めよと皆はいうのだ

与えられた恩寵を羨む人もいる

分からないのだ

その犠牲の重みが

 

 

やがて大きな地震が起きて神事の一切が行われた神殿は海の底に沈み

人魚の涙は消失することとなった

代わりに傍らにあった祠の入り口に松明の火が絶えず灯される事により

その少女の菩提の弔いとし、それは今日まで続く儀式となっているが

以後 神事は全て男性のみで行われる事となった

そして夜、女に身を窶した男が祠の前で踊りを饗すのが習わしとされた

コエラカントゥスは眠ったまま、やがて宇宙の夢をみる

コエラカントゥスは喋らない

外の世界の事を誰よりも知っているのに

コエラカントゥスはいつも物憂げである

しろくにごったその眼からは表情を読み取ることも難しい

ただ、困った事があると皆は決まってコエラカントゥスの所へ行って

教えを請いにいくのが習わしになっていた

私が生まれる前からずっと、そうだったのだという

だから私もコエラカントゥスの住処へ行く事にしたのだった

そこにはカンブリア紀の生き残りが細々と暮らしていて

ハルキゲニアはそろりそろりと

歩く度にふわふわと浮かび立つ死骸のプランクトンを捕まえては、止まり

また歩いてはプランクトンを捕まえているのだった

ピカイアが撫でるように海底を泳ぐのでふわふわ浮いた綿帽子のようなプランクトンの死骸をすかさずディノミクスクが花弁状のひだを開いてプランクトンを取ろうとする一方で

とげとげのピラニアがどこかお気に召さないアイシュアイアは他の獲物がないかとせわしなく動いていたがニスシアはじっと身をひそめてこの困った来訪者がはやく他の獲物に移動してくれる事を願っているようだった

 

どうやらコエラカントゥスはあそこの岩場にいるようだ

そこまでいくと、さっきまで顔を出していたオットイアが一斉に穴に隠れたのだった

「…このお客さんは君たちをいじめたりはしないよ

 暴れん坊のアノマロカリスはもういないんだから、君たちもいい加減慣れたらどうだね」

オットイア達がそろそろと這い出してきた。

「ここに来たという事は、君は何か知りたい事があるんだね。

 言ってごらん」

「外の世界の事を教えてほしいのです、…特に人間についての話を」

「やれやれ、君もか。」

「それでも教えてほしいのです」

「最初に言っておくけど、もし人間に会ったとしてもけっして言葉を交わしてはいけないよ」

「…何故ですか?」

「あのこみたいな子を…もう二度と増やしたくないのでね」

「それはあの有名な人魚姫のことですか」

「…そうだね」

「私は、何故人魚姫はあんな事をしてまで人間に近づこうをしたのか、それが知りたかったのです」

「…なんとも難しい問題だね。だってその子はもういないんだから

 僕達は残った話からあれこれ考えるしか術はないんだ。

 しかもそれが当たっている保障などどこにもない。…そう思わないかね?」

「ではあなたはどう思うのですか?」

「…僕は人間に会った事がある。…会った事があるというか。

 まあだいたい合ってるか。

 ここにいるほとんどは僕よりも前にいるんだよ。

 でも僕が…例えばアノマロカリスはどうだったかと聞けば」

「……」

「ほら、この通り」

のそのそと動きながら背中のとげをゆらゆらゆらしていたウィワクシアでさえ

今まで見せた事のないような俊敏な動きを見せて岩場の影で縮こまっていたのだった

他の生物も同様に縮こまっているもの

触手をひっこめたもの 身体から棘を突きだして硬直したもの

ただサンクタカリスだけは変わらず海底を我がもの顔してゆっくりを歩を進めているのだった

重そうな甲羅を背負ってのそのそと、どこか誇らしげですらあったのだった

 

「まあ…よっぽど恐ろしいものだったってことぐらいかな。分かるのは」

「あなたにとって人間とは恐ろしいものですか?」

「…それは分からない。分からないけど

 一つだけ言える事がある

人間はあの子を泡にしてしまうくらい、魅力的だったってことかな」

「私はそれがとても恐ろしいのです。

 …私は止める事が出来なかったから」

「…そうか、君はあの子と知り合いだったんだね」

「…姉でしたから」

「そうか、辛かったね」

「私はまだ小さかったから上のお姉さま達と…お姉さまが喋っているのをただ見ていただけでした。今ではその話をすることも禁じられているのです」

「…仕方ないよ。いや、無理もない

 あんなこと言うのも選ばせるのも、残酷で

 誰も報われやしない…忘れるので精一杯だったろう」

「だからこそ私はこの目で確かめてみたいのです

 …同じではないかもしれないけど、人間を」

「…そこまでの覚悟があるのなら。言う事は何もないね。

 ただ一つだけ守って欲しいのは…」

「けして言葉を交わしてはいけない」

「そう、ただそれだけ」

 

たとえ言われずとも人間と喋る事はなかっただろう

もし喋ってしまえば、失ったものが現実性を帯びて 

心を震わせ、悲しみが洪水となって溢れ出てくるのだ

それでも確かめたい事があるのだ

だから

ゆっくりと上昇して、水面へ

ごぼごぼと溢れる気泡がぶつかって、はじけ飛んで

またぶつかって

 

ただそれだけを頼りに水面へ