怪・智恵子抄

なさけない空のはなし
 

智恵子は東京には象徴が無いといふ。

ほんとの東京がみたいといふ。

私は驚いて行きかふ人たちを見る。
人いきれの中に在るのは
吹けば飛んでしまうよな繋がりの中で
つめたくて、けれども綺麗な格好をした人たちだ
人生は一行のボオドレエルに若かないと
誰かが云ったけれど
ガードレールの下には絶望がぽっかりと口を開けて待っている
きらきら、てかてかとした明かりに目が眩んだ人の、心を慰めるのが軒下の暗がりだ、
ボオドレルは暗がりの暖かさを教えてはくれない
寒々とした人だかりの中から外れたとこにある、その暖かさを
智恵子は遠くを見ながらいふ。
変わりゆく町並みの
そびえたつガラス張りの、
ああ中に人がいたんだっけ
それがほんとの東京だといふ。
空を覆い尽くすよな、でもそれが空だといふのである。
 
林檎哀歌
 
こんなにもあなたは林檎を待っていた
煌びやかなショーケースにきちんとおさまって
わたしの手からとった一つの林檎に
あなたの綺麗な歯が触れるのを、ただ見ていた
五色の香気が立つ
その数滴の人の気まぐれのようなもので
ぱっとあなたの意識は’それ’へと向かった
あなたの青く、そして澱んだ眼が笑みを捉える
わたしの手を握るあなたの力は、ただ一度の力強さでしかなくて
今、あなたの咽喉に嵐があって
こういふ世の瀬戸際に
智恵子はまるで別物のようになって
生涯とも云える熱意を一瞬に傾けた
それからひと時
日本でした、というような知らせを聞いて
周りの雰囲気ががらりと変わった
写真の前に積み重なる問題はさておいて
すずしく光る林檎を今日も眺めよう