ほしのにんぎょひめ 人魚の瞳

草食動物の眼は外敵をなるべく早い段階から視界に捉えられるように平行に位置している

肉食動物の眼は獲物に最期の一撃を与えられるように中心に位置し、立体視が出来るようになっている

眼が捉えるのは三次元世界を二次元に還元した像であるが

それを奥行きのある立体構造として捉える事が出来るのは眼の位置だけではない

実像を実像として捉える事が出来るのは眼に因る働きではない

眼前の世界を実像なのか虚像なのか考える事が出来るのは

実像と虚像が存在するが故である

虚像が存在するという一見誤謬にも思える事象は実像が虚像の存在を以て実像たり得るものであるという事実に則している

 

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あの人はやって来ない

時折、浅瀬に戻ってきては祠の近くの岩場に腰掛けている

祠に見えるのは様子のおかしい人ばかり

松明のパチパチとはじける音の他に呻き声が聞こえてくる

暗く澱んだ煙が朦々と

祠の中から人が入る度に出てくるのだ

どこか生気のない弛緩した笑みを浮かべて出入りする人々は

「にんぎょひめの涙はたしかにあったのだ」

「今度はいつ行けば手に入る?」

「いくら払えばいいんだ?」

と祠の前で待ち構えている男に話しかけているのだ

「まあ、次の時も酒場に来てくれれば、」

「じゃあ、またにんぎょひめの話をあそこですればいいんだな?

 図書館にあった本の話はしなくていいんだな?俺は本を読むのが大きらいなんだ、だけども

 上手い話のありかを教えてくれる本なら別だ。

 でもさ、何で儲かるってのに酒場でわざわざ本の存在なんか教えてくれたんだ?」

「…それは、人数が多ければ多いほど儲かるからな。むしろ感謝してるほどさ。君たちには感謝してるよ…とても、とてもね。」

 

 少女には分からなかった

祠から漏れ出す煙は憂鬱そのもので触れてはならないものだと、彼女の直感がそう告げていた

だけれどもそれらに魅了された弛緩した顔付きの人々は

まるでそれが自分にとってどれだけ必要な物なのか云うのである

少女は悲しかった

あの人と会った場所であった筈の祠は今はもう影もないほどに荒れ果ててていくのをこの眼で見てきたからだ

そしてその荒廃を導いたその張本人が、目の前に居るのに

喋る事を禁じられている、禁じている自分にはもうどうしようもないのだった

笑顔で手招きをする男の顔はどこか酷く歪んでいて

含んだ笑みの下に確かな悪意をはらんでいるのだった

ほら、見ろあの男のなんとも邪悪な素振りを

そこで何をしているのか、何を言って周りを騙しているのか知っているのに、口を紡ぐほかに術はないのだった

 

 

頬に、涙が伝って落ちた