よく見れば酒宴のテーブルは六人掛けのテーブルの筈なのに反対側の席が全て空いている。所狭しと料理や空き瓶が並んでいるのに、どこか不自然だ。
そこに座るのはおそらく…
だとしたら、成る程この町の規模のわりに酒場がこんなにも立派な店構えをしているのもうなづける。
そしていつも灯りがついてるのも。
店主は慣れた仕草で空いた席に腰掛ける、そして何十回繰り返されたかわからないような話をし始める。
「まあ、君も席に着くといいよ、どうせ見知らぬ人なんてなんてめったに来ないこの店だ、何処にでも座るといい。
ここは酒と魚がうまいのが取り柄だがー、それ以外は人魚姫伝説以外何もない町だな、うん」
「人魚……姫?」
またもやぼくは素っ頓狂な声をあげてしまった
どうやら期待通りの反応にテーブルに腰掛けた人達はいよいよニヤニヤ顏が止まらないといった風体であった
「人魚姫ってあの…アンデルセンの童話で有名な人魚姫…ですか…?」
恐る恐るぼくは尋ねてみる、もはやこの珍妙な歓迎に、なす術なく身を委ねるほかはない、覚悟を決めることにした。
「おっ!アンデルセン知ってるなら話は早いな!なら、何処から話すかな」
またもやぼくを置き去りにして盛り上がる人達
口を開くだけで歓迎されるのは久方ぶりの感覚である、こういうのもたまにはいいかもしれない。
「アンデルセンの人魚姫がこの町の人魚姫の伝承に何らかの関係があるってことですかね?」
「おっ、するどいね、君」
店主の人柄もあってか、
なんだかつられてぼくも楽しくなってきている。
「実はこの町の海岸に…いるんだよ、人魚姫が、俺は姿を見かけた事はないんだけれどもね、残念ながら店が忙しくてな」
「えっ?見かけた事はないのに、人魚姫なんているってどうして言えちゃうんですか?」
と、うっかり口を滑らせてしまった。
するとテーブルの奥に居た男が立ち上がった
手には陶器で出来たビールジョッキを持っている
「俺は見たことあるぜ、人魚姫」
「お…おれも」
さらに俯きながらこわごわ手を挙げる男の姿があった
何やら強い確信を持っているらしくこちらを見ている男の方の目付きは鋭かった。
「俺は人魚姫が居ても、居なくてもここでうまい酒が飲めるなら文句はない」
とその二人の隣に座る男は何食わぬ顔で重厚な大きめのショットグラスを傾けながら言った。
「とまあ、毎日のようにくる奴でも意見はバラバラだから、別に気にしなくても良いが不定期にくる奴はたいてい人魚姫の話をしにここにやってくるから
知っておくに越したことはないよ、どうかね?」
「はあ…」
「どうせ、人魚姫を見たことあるなんて頭がおかしいやつの戯れ言なんて思ってるんだろお前」
「そういうのよくないって…かえって信じてもらえなくなっちゃうよ…」
そう宥める男のグラスは無く、どうやら下戸らしい
代わりに大きめのマグカップが一つ手元におかれているのだった。
こちらと目が合うと少し目元を緩ませて
「あ、店長ココアある?さっきから何かのみたくて頼もうと思ってたんだ…」
どうやら助けてくれるらしい、なんともありがたい「お前…タイミングってのにも程があるだろ…まったく…」
とがっくりうなだれる男
先程の意気は失われていた「そういうお前はいっつも人の話を聞かなすぎるだろ、あいつ見習って少しは落ち着けよ…」
とこちらの方を見ながらさらにショットグラスの男が言うのだった。