多感作用と誰が為の共感

萊草唳の創作雑記

ほしのにんぎょひめ 1項

星の産まれる声が聞きたくてそっと始める。ポケットから瓶を、買ってきたばかりのグラスをそれぞれことりと置いてはやる気持ちを必死に抑え、深呼吸をひとつして。

 

 海を泳ぐ人魚が何故、と一言だけつぶやいて流した涙が真珠になってそれをグラスに入れて炭酸水を注ぐと泡がぷつぷつと浮かんでは消え、砂のような星粒が空へ宇宙へと上っていく。この時けっしてグラスを倒して零してしまうような事があってはならないのだった。

 

 それはこのささやかな儀式における唯一の決まりごとである。町の図書館で見つけた古びた本に書かれた伝承にはない、ぼく自身の決めたことではあるが。

儀式は手順と決まり事があればある程尤もらしく感じられるにすぎず、何よりも先を見たくて逸る気持を抑えきれずにいる今のぼくにはこれ以上思いつかないのであった。ぼおっとにぶく光る光の粒は蝋燭の光とは違う瞬きを持っていて、その欠片は触れてしまえばほろほろと崩れてその瞬きを止めてしまう、そんな類のあわい、とても扱いに慎重さを要する代物であるからだった。

 かの宝を授けてくれた人魚姫の涙の理由はわからない。かのじょはそれきり喋るのを止めてしまったから。姿を見かける時かのじょは崖にいつも一人で腰掛けて海の方を眺めている、少し離れたところに洞窟が見えるが真偽のほどは分からない。洞窟の入り口のはるか上方には松明の火が燃えさかっている。中に人がいるかどうかは分からない、だがそこに居る人魚姫は遥か先を見つめているかのようで、松明の火がはじけて薪を揺らしていても動かないままである。後ろを振り返る事は出来ない。何故なら昔決めた取り決めに拠って人と関わる事を禁じられているからであった。それはいつの時代も同じだった。ぼくの聞いた話に拠ると、ではあるが。

いつも黙ったままそうしているので今では問いかける人は誰も居ないのであった。昔話では人魚姫が待ち焦がれていたのは、想いを馳せていたのは陸であり城に居るかの人であったのにどうやら違うらしい。空気の精となった有名な人魚姫に思いを馳せているのだろうというのが専らの見解だった。じっさいの答えはわからないのだから。

 あれこれ考えを巡らすのがその姿を見かけた事のある人達の間で持ちきりの話となっていた。町に唯一ある酒場で夜毎繰り返されるささやかな酒宴を彩る話にはもってこいで、時にじっさいにその姿を見かけた事のない人でさえも口々に、人魚姫はこうしていた、ああしていたと話すので人々の間で話をすればするほど、かえって人魚姫についての事が分からなくなるのであった。とにかく、危険を冒してまで人目の付く場所に居るのである、何かあるのだけは確実なのだ、というのが通説だった。而して想像は、創作は実に愉しい遊戯なのである。誰もその咎を責める人はいないのであった。

そしていつも酒場で話されていた話に何の気なしにこの街に立ち寄ったぼくが興味を持つのも当然の事であった。

 

 松明は行きかう人たちの手によって絶えず薪が用意され、洞窟の入り口を照らしているのであった。もしかしたら人魚姫の目に留まるかもしれないという願いによって続いているのだった。人魚姫の涙を手に入れたくて、人々は松明に火を灯す。

 気泡は俄かに真珠の粒を揺らしている。ちりちりと細かな気泡が生じてはじわじわと水面に上っていってやがて微かな光で暗い夜道の標べとなる星へと姿を変えるのだ。牛乳を零したかのようと時に称される天の川は優しく人魚姫の悲しみを受け止めているかのようで夜空のキャンパスには無数の光の粒が滲んで観える、光の帯が見える。星の萌芽が彼方此方に散らばってガス雲を燻らしているのであった。時に瞬いて、新たな星の誕生を報せてくれるのであった。夜空を彩る星々が同じ輝きを照らしているのに此処からどれだけ離れているのかは考えるべくもない。何万年も昔の光を今ここにいるひとびとに伝えている人魚姫の涙はここにあって真珠の形をしているのだけれどもやがて解けて、宇宙へと上るのをここでじっと待っている。炭酸水は炭酸水でも砂糖が入りすぎるとどうも具合が悪いらしい。ぶつかりあった気泡がじしんがパンと破裂する前に針で少しずつつついていくことで俄かに生じた帯が、中心に芯が出来る事で、それを包み込むように星の素がまとわりついていくのであった。ぐらぐらと煮たつ星の表面は膨らむと少し落ち着いて、縮むと再び激しくぐらぐらと煮たつのであった。放たれる光は膨らむ速度に関わらず同じなので軽すぎても重過ぎてもいけないのだ。もし軽過ぎれば煮たつうちに中がすっかりがらんどうになってそのまま萎びていくだけだし、重過ぎるといちいち膨らんだり縮んだりするのに耐えきれなくなって大きく形が歪んでいっていつまでも縮み続ける恐ろしい代物になるのであった。ぽっかりと開いたくらい陥穽である。

 かくももろく崩れてしまうかのような小さな粒がやがてほの暗い陥穽へと姿を変えていく激烈な星の一生をみたければ砂糖の量を増やせば良い、全てはお砂糖ひとさじの塩梅できまるのだ。幸せにも不幸せにもなれる、甘い粒である。そして放つ光がその星の行方をぼくたちに報せてくれるのだ、途方もないとおくに離れたところから、静かに、しかし確実に。

 辿る運命はほんのわずかな違いなのだ。不可思議で実に奇怪な星の一生はそんな簡単な事で決まってしまうのだ。そんな不可思議を手にしたくて人々は松明の灯を絶えず灯し続けたのであった。

 長年追い求める人がいる中でこの町に来たばかりのぼくがそれを手にする事になったのは考えてみれば奇妙なことではある。