多感作用と誰が為の共感

萊草唳の創作雑記

ウィトゲンシュタイン考察

道徳観、倫理観を言葉で語る事が出来ないのは

ある特定の場合において

言葉をむやみに発する事それ自体が自分がとりうるべき行動基準と倫理観に反するものである側面もあり、超越論的に受け手とのやり取りの中に蓄積されていくものだからである

みずからの論述それ自体では効力をなさないという点において論述としては酷く脆弱であり、ゆえに黙して語られる事は少なくなり、他者との会話の中に蓄積されていくものは自己の認識外に存在する超越的なものである

論理哲学的論考は語られるべきだった言葉が消失していく過程である

透明な沈黙とは、

語られるべきだった言葉に対するある種の寂寥感ともいえるのではないだろうか

語られない言葉は他者の理解を拒んだが故の孤独となって己の身を苛むのである

語るべきであったという後悔か、語る事によって生じる預かり知らぬ他者の感情の萌芽か

萌芽はやがて艱難を齎し己の身に辛苦を伴って返ってくるのか

凡ゆる萌芽に己の身を苛まれる恐怖に囚われ、ただ黙して語らないのは病的なまでの己の脆弱さにも通じるが

雄弁な無能たることを拒み、ただ己の内に確かな知見を蓄積していくこと、またそれこそが論考の目的だったのではないだろうか