多感作用と誰が為の共感

萊草唳の創作雑記

ジンケンヒ、サクゲン

ある人がいた、

「サービス業務において最もコストを削減可能であるのは人件費だ、徹底的に削減しよう!」
かくしてある人物の立ち上げた会社は徹底的な時間管理の下で人を働かせるものとなった
「お客様は神様であり、また雇い主も神様である」というスローガンの下
キツイ仕事を安い給料でたくさん働くことは義務であり、それ以上でも以下でもない
疑問を感じ声を上げようものならば
「君は社会の事をどうもしらないらしい」
と人の性を知らない人が己を満足させる為だけに叱責し、そして罰と称して衆目の前に晒しあげ「課題」を課すのである
課題は単純で冗長であればある程良い。
そうやって同じ事をなんども繰り返させて刷り込むのだ
「ああ、これだけのことを何度もやらされるくらいなら、従った方がましだと」
そうして判断力の鈍った指示待ち人形の出来上がり、というわけである
外にいる人々は彼の手腕を称賛する。従順でどんな過酷な要求にも張り付いた笑顔で対応する従業員を見て
「素晴らしい、どうやってこのように人を統率することが出来るのか、まるで魔法の様じゃないか」
と口々に賞賛の言葉を並べたてる。人が人を統べるとという欲望に取りつかれた人々は彼になろうと欲する。
 そして彼の信奉者になる、甘い汁を吸おうと、蟲の様に群がる。果ては蟲毒のように強いものだけが生き残る、一番強くて、一番野蛮なやつが、
 
ある日彼は全てを喪った。なにもかもを人から奪った彼はまるで奪ったものの大きさに耐えきれなくて、ぺしゃり、と潰れたかのようだった。
それでも彼は信じ続けた。
 
喪ったものを取り戻すために
 
今までの自分がやってきたことは正しかったのだと信じたいがために
 
ああそれでも社会は手厳しく、富を失い、名声を喪った彼を守る人などどこにもいなかった。
 
彼はあらゆる人の娯楽に消費されるだけの存在となった
 
ある人は動画を投稿し
ある人は彼の写真を加工した画像を作り
ある人は彼のお決まりの台詞をいう「ロボット」を作ってみせた
 
思い思いに人は嘲笑し、罵詈雑言を浴びせ、
こいつはこんなに悪い奴なのだから、こんな奴が落ちぶれるのも当然の罰だと口々に言うのだった。
 
一通り消費つくされた後、飽きてしまった人々は彼の事をすっかり忘れてしまっていた。
うっすらと埃を被ったロボットが落書きまみれで廃屋に横たわっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジンケンヒ、サクゲン
ジンケンヒ、、、、サクゲン
ジンケンヒ、、、、、、、サクゲン
ジンケン、ヒ、、、サクゲン
ジンケン、ヒ、
ジンケ、、、
ジ、、、、、
 
 
…………………ッーーーーーーーーー。

靄のなか

電車に揺られている。本を開いて顔を伏せ、ただ字を目で追っている。
直ぐに連なった電車は急な曲線にさしかかると、ぎしぎしと音を立てている。通路から見えていた景色が見えなくなる。トンネルを抜けると木の乏しいなんとも侘しい岩山がみえてくる、はずなのだが靄に包まれていた、そろそろと窓に垂れ込めてくるかのようなそれに思わず顔を上げ辺りを見渡す。私一人だけがそこにいて、この景色を見ている。ひやりとした不安がこみ上げてくる。本に目をやる、字が頭の中に入って来ない。二度目のトンネルにさしかかり、そしてまた電車はぎしぎしと音を立てて弧を描き始めた。トンネルを抜けた所で何も変わることなどないのだ、とただ辺りを見渡すだけでは何も得られるものなどないのだと独り言ちてみる。
トンネルを抜け、明るくなった車内は温かみを帯びていた。
靄が晴れると、車内はいつもの喧騒を取り戻していた、これが日常なのか
気づけばもう三年の月日が流れていた。

Rules are running out

また、ルールが改訂されたのか

もう夏かと思わせるほどの太陽が照りつける、光は新緑をじりじりと焼きつけいまにも融けてしまいそうだ。

街の電光掲示板や携帯型タブレットなどといったあらゆる情報ツールが同じ画面を表示する

「××年××日○時 ルールが変更されました、各自確認すること」

刻一刻と変更されていくルールに順応するのが国民の義務である

まるでマスゲームかのようにその場に居合わせた人達が同じような動作で情報端末に眼を通す

僕はというと通知を知らせるアラームが鳴ったらそのまま放って置いている、そうして一日が終わったあとに更新事項を眺めて、ああ今日も滞りなく一日を過ごすことが出来たと、独り言ちて安堵とそして独りよがりな満足感に浸るのだ

これはある種の賭けなんだ、

何もしないことが禁則事項に含まれてしまったら僕の賭けはそこで終わってしまうのだけど

ルールなんて知ったことか、ルールを破ろうとしてる人たちにはその切実な声なんて届くことは無くて、

ただ哀れで「善良」で「無害」な人達がルールが変わったことを確認するのが国民の義務で、

変わったルールと変わる前のルールがどう違うかだとか、そんなことは衆目の関心には至らないんだって

実にくだらないよね、ルールは施政者の意図通りに変遷していくのに肝心の当事者たる人々が無関心なんだって

そして問題が起きた時には声をあげるんだけどもう手遅れだってことに気づいてないんだ

あれを変えればどうにでもなるんだという甘言に惑わされて、でも結局その文言がそっくり別の言葉に成り代わってしまう、いつの間にかに、知らないうちに

そのすべてを追いきれる人は誰もいないんだってことに気づかなきゃいけないのに

 ルールを変えるのが祖父の背中を追ってきた僕の唯一の目標なんだって言ってた人もいるけれど、今は時代が違うじゃないか、そういう結論に至った過程をあなたは見てきたのか、違うだろ、結果どうしたいかだけしか記憶に残ってないんだろって

何回もルールが改変される度に思うんだ、あなたが作りたい世界は、何なんだと

そしてまた、アラームが告げるんだ

ルールが改定されました、

ああ、まただ、と 

「理性ってものは普遍的なものじゃなかったのかね、それが今ではどうだ。」

違うんだ、理性を語るにはあまりにも人の性が脆弱であやふやなもんだって、ただそれだけのことなんだ

臆病な人間が自らを責めるものを退ける為だけに変更されていくルール達

イレギュラーは終わらない

改変も終わらない

安住の地はどこにもない。

 

 

ほしのにんぎょひめ エピローグ

僕は刑務所に来ていた、
というのは店主はまだここにいるらしいとの情報を得たからに
過ぎないのだけれども
彼がいわれの無い罪を問われ、今までこんな日々を過ごしているなんて知らなかった僕は、彼に会わずにはおれなかった
名前を告げ、面会の旨を告げると
彼に面会しに来る人は今まで一人としていなかったらしく
監察官に酷く怪訝そうな顔をされたがなんとか面会の許可が下りる事となった
 
何でも彼は刑務所生活では模範生らしく(冤罪で牢に入れられたようなもんだから当然と言えば当然なのだが)
刑務所内でのいざこざの仲介役をこなしたり活躍は多岐に渡っているらしい。
そんな話をしながら僕は面会室に通された。
壁一枚隔てた向こう側は別世界のように酷く淀んで暗い場所だと僕は思っていたのだけれども、想像とは全てが違っていた。
全ての権利を放棄した人達が、新たな権利を得るために日々を過ごす場所である刑務所で生きる人たちの日常は、刑務所の中に存在していて、そのサイクルの中で生き続けているのだ
柵の内側だろうと外側だろうとそれは変わらない。
行き場を失った亡霊のように佇み、ここにしか行き着く場所がないのだというように
制限を受ける事に順応しているだけで本質は変わらないのだという事を思い知る
ただ生きて生活することにすら不具合が生じるなら、もしかすると徹底的な監視の下で、制限を受けるけれども全ての義務から解放された日々を送る方がその人達にとっては幸せなのではないかと、
ぼくは思ってしまう
考えるということはある種、人に与えられた義務だ
彼らが犯した行為を斟酌するのはそれを取り巻く人達の義務で、当事者である人はというとこれからやる事がどれだけ悪い事か考える前に既に行動を起こしてる
出来そうか出来ないか、上手くいったかしくじったか
それだけの違いでしかないんだろうなって
人じゃないんだ、人としての義務を既に放棄してるんだ。
罪を犯したから罰が必要だと人は言うけれど
違うんだ、善悪の高で人を説得出来るなら、倫理なんで学問は存在しないんだ
そんな簡単な事で人が分かりあえてたまるものか、って
罰じゃないんだよ、その人にとっては。
だから管理する側の人間が必要なんだ。
僕は壁の内側に連れて来られてしまった人と対峙する。
この人だけは違うと信じてるから。
約束もしてないけど、ただ無事だという事を報せる為だけに。
「ここには誰も来ない筈だと思っていたんだけど
…お前が来たということは、終わったんだな、何もかも
解決はしなかったけど、終息にだけはこぎ着けた、といったところかな。
なあ、聞いてくれるか。
たとえもし、石を投げつけられたとしても
石を投げつけられた後は気を持ち直して与え続ける人でないといけないというのが、俺、いや…僕の信念なんだ
でも石を投げ続けてくるという人は、それしか出来ないから
いつかそんな僕の行動を理解出来ないだとか
ひょっとすると脅威に感じるんじゃないかと、思うんだ
きっとそれは生き方が違うからで
そして俺も、…もう俺ではないんだ
石を投げつけられた時から
全てが終わり、そして始まったんだ
今では僕と言った方がしっくりくる、いやむしろ相応しいって思うくらいの違いがそこにはあるんだ
かつての僕は酒場で何が起こってしまったのか見極めようとした、
そして自分の身を全て賭けて一石を投じてみたのだけれども
…実態をようやく掴みかけた時には、もう、手遅れだった。
いつのまにか歯車の一部として取りこまれてしまっていて
そして利用もされていて
何の取引が行われているか、ぐらいしか分からなくて
それが何かを確かめることも
また、食い止めることも出来なかった
…これは僕の罪だ
だからこうして牢に入ったのは一種義務だと思っているんだ
そしてこれは彼らに対抗する手段でもあったんだよ
場所がなくなった今、彼らは散り散りになってしまって
あれからあの酒場で取引が行われる事は不可能になってしまった
人を集めると言う事は実際難しいことだ、
人が少な過ぎては利益を得ることは難しくなるし
逆に人が多過ぎては事態が明るみに出るリスクが増すからだ
僕みたいなトカゲの尻尾みたいに切り落とせる人間なんて見つけるのは更に至難の業だ
…やつらは手元における事情を何も知らない人間を必要とする
これから起こる事が何かも分かっていなくて
そして利益的な感情を持って近づいてきたのでもない
憐れな子ヒツジのような存在が、な
だからお前が気に病むことなんて無いんだ。あの二人の事も」
「僕だけが何も知らなかった」
「いや、今まで良く頑張ったと思うよ…
 お前は逃げずにこの街に戻ってきて、そして僕に会った。それだけでも大したもんだ」
「ぼくは何も覚えていなかった、悲しみごと、何もかも
 だからこそ、辿ることが出来たんだ、…それだけだよ」
「でもこうして思い出す事は出来た
その時のそのままでなくても、どう思ったか、どう感じたかだけは、残ってる
だからこそ、ここに来たんだろ?」
「…あなたはこれで良かったんですか?」
「言ったろ、これは義務だって
 …まあ下手すると命が危なかったからな
それならこの徹底的な監視のある場所で、多少ではあるが窮屈な生活を強いられている方が気楽だってのもあるよ」
「…そういう余裕そうな感じ、変わらないな。」
「僕が変わったのは…お前の母さんと会ってからだよ
まあ、変わらないと言ってくれたのは嬉しいかな、ありがとう」
その言葉に安堵をし、今までの口調に戻すことにした
初めて会ってから、些細な事でも何でも話してきた、あの日のように
「…これからどうするの?」
「パンを作る職業でもしようかな、と」
「それは何で?」
「作る人である限り、奪われる事はあるかもしれない
 …でも失うことはない
 だからこそ、作り続けるんだ、何かを
 …何でも良い、でもどうせならやってみた事のないものを」
やっぱり前と変わらない、同じだ。
思わずふっと笑みが零れる、そして
「…21.262グラム」
「…?え?」
「21.262グラムらしいんだ、魂の重さって
ある学者が実験によって突き止めたらしいんだけども
真実かどうかは別として、面白いな、って思った
…店主もその学者とどこか似てると思う」
「…そうなのか?良く分からないけど」
 
死んだ人の事を思うと心が沈む
そして涙を流しているうちにふっと心が浮つく、まるで空っぽになったみたいに
悲しみが空洞になった心を穿つ
死んだ人を思って泣いた分だけ心が軽くなるのは
それが21.262グラム分だけの重さを帯びているからなのかもしれない
その重さだけ悲しみを吐き出したら
その分だけ新しく生まれ変わってまた、一歩を踏み出せるような気がするんだ
「ぼくはまた、旅に出ようと思う」
 
 
そこで、面会の終了を告げるベルが鳴った。
 
 
 

ほしのにんぎょひめ 透明な沈黙の中で

イデアは喋らない、だからこそ僕は喋り続ける
「そして誰も居なくなった、」
拳をぎゅっと握りしめて全ての感情を噛み殺しながら
「ぼくはここに戻って来たのはつい最近で、ぼくだけが今ここに居るんだ」
彼等の不在がなんてことのなかったかのように街は機能していて
酒場もすっかり風体が変わってしまっていて、それでも海岸の風景だけは相変わらずで、松明の光が煌々としていた
ああ、思い出していくたびに蘇るのは自分にとって大事な思い出であって
他人にとってはそんなのどうってことのない記憶なんだと
そこに居る人には時が流れる度に廃れていって変わることのない生活にどこか嫌気がさしてしまって
そうして全てが置き去りにされてしまうのだ
「ぼくは、彼が辿り着けなかった真実を確かめなければいけないんだ、でもどうしてなんだろう
誰もが皆違う方向を向いて居た筈なのに、」
二人ともがそれぞれ事情を抱えていて嘘をついていたのだ
一人は義務から
そしてもう一人は単なる暇潰しか、それとも、いや、本人ですらそれが何を意味するか分かって居なかったのだろう
血走った目に焦りの表情は感じられたものの、自分が何をしでかしたのかは分かってはいないようだった

店主は麻薬の取り引きに関与していた疑いを持たれて捕まる事となったが
店主が糸を引いていたという証拠はどこにもなくただそこに足繁く通っていた二人の常連客が死んだ事と、洞窟で薬を使用した痕跡が発見された事から
事情聴取を受けたのが全ての始まりであり、そして終わりだったのだ
アブサンは薬とは無縁の酒の筈だった
でも、ハーブと言ってしまえば如何様にでもなるというのが
通例である

「どうして店主が、どうして、あの二人が」
にんぎょひめは答えない
言葉が通じるのかどうかも分からないまま、ぼくは喋り続けた
岩場に腰かけ背中合わせになった状態ではかのじょの表情は分からない。
ぼくにはただ、話を聞いてくれる人が必要だった
「君は誰なんだ、何をしていたんだ、
…何を考えているんだ」
振り返るとにんぎょひめの姿は跡形もなくなっていた
そして、光の帯が絶えず回転するそのなかにそれはあった
それが、人魚姫の涙だった

ほしのにんぎょひめ どうくつのイデア

細波が引いてぼくは手に持っていた本を静かに閉じた

寄せては打ち返す波のただ中に居てただ一つ変わらない松明の灯を眺めていた

そんな中でぼくは、彼女に出会った

鈍く光る彼女の姿は話しに聞いていた人魚の姿かたちとは異なっていた

ぼくは彼女が話が出来るのか出来ないのかお構いなしに

隣に座ってとりとめのない話をする事にした

背中合わせですぐ傍に居るのに、相容れない隔たりはいくら時を重ねた所で普遍的に存在する見えない壁のようなものに遮られる

彼女はそんな存在だ

だからこそ言えるようなこともあるんじゃないかとぼくは思うのだった

「…洞窟のイデアってしってるかい

足枷をつけた人々が洞窟の中で暮らしてて

暗がりの洞窟を照らし出す唯一の松明に映った何者かの影を人々は恐れるんだけど

それは自分の影であって、つまりはまやかしに過ぎないんだよ

でもまやかし程人は恐れるもので

すぐ傍にある足枷には気付きもしないでただ騒いでるんだ

それはつまり…早く気づくべきなんだって事だよ

 

ぼくの祖父は人魚姫の話をとても楽しそうにしてて、

どこか遠くを見つめた風に、幸せそうに

 

だからぼくもそういうのが見つかれば良いのになって

ほんとうのさいわいなんてわからないけど

ただ、あそこはぼくが居てもいい場所なんだって

そういう気がして

 

実際あの時のぼくにとって人魚姫がいるかどうかは重要ではなかったんだ、…店主に会って何かが変わったのかな

 

…おかしいと思ったんだ

ぼくは記憶を喪っていたのだけども

掻き集めた欠片をいくら繋ぎ合わせた所でそれは前のぼくじゃないってことは分かったんだ

でも何回も何回もそれを繰り返した事は、やっぱり無駄じゃなくて

その分ぼくは、

少しだけ、今まで目を背けて見ないふりをしていたものと向き合えるような、

そんな気がして

 

 

…そして、ぼくと一緒にいたあの二人は、見知らぬ人が久しぶりに店にやって来たあの日に

…死んだってこと

そして店主も居なくなってしまったってこと

そして、店主は単に利用されただけで、

…それはあのアブサンに関係する事で

 

 

かれに会わせてくれたのは…君だね?

 

イデアって呼ぶね、これからは

………洞窟の方みてるからイデアっていうの、

ちょっと単純かな…?」

 

ぼくはかのじょにイデアと名づけることにした、名前も教えてくれなかったから

ぼくに特定の名前を考えるだけのセンスはない。

もしかしたら女性じゃないかもしれない、人魚姫の世界のことはわからない

 

ほしのにんぎょひめ 人魚の瞳

草食動物の眼は外敵をなるべく早い段階から視界に捉えられるように平行に位置している

肉食動物の眼は獲物に最期の一撃を与えられるように中心に位置し、立体視が出来るようになっている

眼が捉えるのは三次元世界を二次元に還元した像であるが

それを奥行きのある立体構造として捉える事が出来るのは眼の位置だけではない

実像を実像として捉える事が出来るのは眼に因る働きではない

眼前の世界を実像なのか虚像なのか考える事が出来るのは

実像と虚像が存在するが故である

虚像が存在するという一見誤謬にも思える事象は実像が虚像の存在を以て実像たり得るものであるという事実に則している

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

あの人はやって来ない

時折、浅瀬に戻ってきては祠の近くの岩場に腰掛けている

祠に見えるのは様子のおかしい人ばかり

松明のパチパチとはじける音の他に呻き声が聞こえてくる

暗く澱んだ煙が朦々と

祠の中から人が入る度に出てくるのだ

どこか生気のない弛緩した笑みを浮かべて出入りする人々は

「にんぎょひめの涙はたしかにあったのだ」

「今度はいつ行けば手に入る?」

「いくら払えばいいんだ?」

と祠の前で待ち構えている男に話しかけているのだ

「まあ、次の時も酒場に来てくれれば、」

「じゃあ、またにんぎょひめの話をあそこですればいいんだな?

 図書館にあった本の話はしなくていいんだな?俺は本を読むのが大きらいなんだ、だけども

 上手い話のありかを教えてくれる本なら別だ。

 でもさ、何で儲かるってのに酒場でわざわざ本の存在なんか教えてくれたんだ?」

「…それは、人数が多ければ多いほど儲かるからな。むしろ感謝してるほどさ。君たちには感謝してるよ…とても、とてもね。」

 

 少女には分からなかった

祠から漏れ出す煙は憂鬱そのもので触れてはならないものだと、彼女の直感がそう告げていた

だけれどもそれらに魅了された弛緩した顔付きの人々は

まるでそれが自分にとってどれだけ必要な物なのか云うのである

少女は悲しかった

あの人と会った場所であった筈の祠は今はもう影もないほどに荒れ果ててていくのをこの眼で見てきたからだ

そしてその荒廃を導いたその張本人が、目の前に居るのに

喋る事を禁じられている、禁じている自分にはもうどうしようもないのだった

笑顔で手招きをする男の顔はどこか酷く歪んでいて

含んだ笑みの下に確かな悪意をはらんでいるのだった

ほら、見ろあの男のなんとも邪悪な素振りを

そこで何をしているのか、何を言って周りを騙しているのか知っているのに、口を紡ぐほかに術はないのだった

 

 

頬に、涙が伝って落ちた