ふつふつと湧き立つ泡はやがて色を帯びて鮮やかな藍色へと変貌する
其の猫はただ一度限りの生を生きた
ほしのにんぎょひめ 三重点
ほしのにんぎょひめ fight or flight
ほしのにんぎょひめ 紅穿つ
晒し去らせや曼珠沙華
しほたる雫に来しむ声
晒し晒せど尽きもせず
酔いも巡る宵闇の
其処彼処に帰し方来方
あれ見やるに畝掘り田掘り
死をやる涙はせんかたなく
紅拡がりて見知らぬ気色
拓けや拓け
興せや興せ
しほたる雫は一時なりやと
声聞こえる
拓けや拓け
晒せや晒せ
晒し去らせや曼珠沙華
拡がる紅が追い出したるは
あれ見やるに背け花向け
酔いも醒めぬ宵闇の
其処彼処に手招き間引き
あれ見やるに水張り田掘り
紅発つ涙はせんかたなく
いつだって物言わぬ者から先に虐げられてきたのだ
今に伝わるこの歌がそれを教えてくれる
ならば今舞台に立つ自分はどうなのか、
与えられた役目を、ただ果たすのみである
生まれた時から決まっていた事ならばそれを甘んじて受け入れるしかないのである
他に何があろうと、これだけは守らなければ
また滞りなく行わなければならない事なのである
一歩進めば振り返り、二歩進めば睨みをきかせ、三歩進めば見栄をきる
観客はいない、自分との闘いである
ただ動きの精緻さだけを追求し、粛々と行うのが習わしである
洞窟の狭い道を進むのだが
外の様子は洞窟の中からは窺いしれないし、また、洞窟には使者となった人間しか入る事を許されないので
外の者共は彼岸と此岸を渡る使者となった遣いを待ち構えている
この時決して外にある松明の火が絶やされるような事があってはならないのだが
この年その禁を破った者が表れた事から綻びが、生じた
何も知らない、若者だった
そしてその稚拙な役者の企みが本懐を遂げる事も無かったのであった
ほしのにんぎょひめ 泡となった少女
何事にも犠牲が必要なのだと皆は云う
祭事の取り決まりにより
巫女となってこの身を神に捧げよ、それで丸く納まるのだと
皆は云う
この役目は光栄な事だと、
素晴らしい事だと羨望な眼差しを向ける人がいる一方で
毎日この神殿を訪れる人の中には
己が娘にその役目が来なかった事を安堵しているかのような人も確かに見受けられるのだ
綺麗に飾り立てられたまま椅子に座り刻一刻とその時が来るのを待っている
私ぐらいの娘達は嫁入りの為に誂えられた衣装を矯めつ眇めつしているのを尻目に私だけがその場から動く事を許されなくて、
ただそこに居る事を命じられている
荒事に女は不要だと云うが西国より伝え聞いた伝承には必ず女が発端となった戦があるのだ
投げ込まれた黄金の林檎は知恵の実ではなかったのだ
人災は天災よりも実に些細な事で厄介な荒事を引き起こす
この手元にある人魚の涙というものもそんな代物である
願いを叶えるのでも
万物に勝る宝物でも
不死を齎すのでもないこの代物は
ただそこにある事が重要であるのだという
己が未来をただ照らし、屈折させる物なのだと
其れが示すのは可能性であり、真偽のほどは定かでないと
境界線に存在するのは臨界点であり、帯のように存在するのだと
付帯するのであってそれは相対的にしか計れないものであると
謂うのだった
私には分からないのだ
犠牲が犠牲として容認されうるのは
それは当人が自分に言い聞かせるように
ある種の諦念を帯びてこそ真価を発揮するのであって
犠牲を強いる側が用いてはいけないことなのではないのだろうか
それでも神事は終わらない
それが昔から決められた決まりだと云うのだから
諦めよと皆はいうのだ
与えられた恩寵を羨む人もいる
分からないのだ
その犠牲の重みが
やがて大きな地震が起きて神事の一切が行われた神殿は海の底に沈み
人魚の涙は消失することとなった
代わりに傍らにあった祠の入り口に松明の火が絶えず灯される事により
その少女の菩提の弔いとし、それは今日まで続く儀式となっているが
以後 神事は全て男性のみで行われる事となった
そして夜、女に身を窶した男が祠の前で踊りを饗すのが習わしとされた
コエラカントゥスは眠ったまま、やがて宇宙の夢をみる
コエラカントゥスは喋らない
外の世界の事を誰よりも知っているのに
コエラカントゥスはいつも物憂げである
しろくにごったその眼からは表情を読み取ることも難しい
ただ、困った事があると皆は決まってコエラカントゥスの所へ行って
教えを請いにいくのが習わしになっていた
私が生まれる前からずっと、そうだったのだという
だから私もコエラカントゥスの住処へ行く事にしたのだった
そこにはカンブリア紀の生き残りが細々と暮らしていて
ハルキゲニアはそろりそろりと
歩く度にふわふわと浮かび立つ死骸のプランクトンを捕まえては、止まり
また歩いてはプランクトンを捕まえているのだった
ピカイアが撫でるように海底を泳ぐのでふわふわ浮いた綿帽子のようなプランクトンの死骸をすかさずディノミクスクが花弁状のひだを開いてプランクトンを取ろうとする一方で
とげとげのピラニアがどこかお気に召さないアイシュアイアは他の獲物がないかとせわしなく動いていたがニスシアはじっと身をひそめてこの困った来訪者がはやく他の獲物に移動してくれる事を願っているようだった
どうやらコエラカントゥスはあそこの岩場にいるようだ
そこまでいくと、さっきまで顔を出していたオットイアが一斉に穴に隠れたのだった
「…このお客さんは君たちをいじめたりはしないよ
暴れん坊のアノマロカリスはもういないんだから、君たちもいい加減慣れたらどうだね」
オットイア達がそろそろと這い出してきた。
「ここに来たという事は、君は何か知りたい事があるんだね。
言ってごらん」
「外の世界の事を教えてほしいのです、…特に人間についての話を」
「やれやれ、君もか。」
「それでも教えてほしいのです」
「最初に言っておくけど、もし人間に会ったとしてもけっして言葉を交わしてはいけないよ」
「…何故ですか?」
「あのこみたいな子を…もう二度と増やしたくないのでね」
「それはあの有名な人魚姫のことですか」
「…そうだね」
「私は、何故人魚姫はあんな事をしてまで人間に近づこうをしたのか、それが知りたかったのです」
「…なんとも難しい問題だね。だってその子はもういないんだから
僕達は残った話からあれこれ考えるしか術はないんだ。
しかもそれが当たっている保障などどこにもない。…そう思わないかね?」
「ではあなたはどう思うのですか?」
「…僕は人間に会った事がある。…会った事があるというか。
まあだいたい合ってるか。
ここにいるほとんどは僕よりも前にいるんだよ。
でも僕が…例えばアノマロカリスはどうだったかと聞けば」
「……」
「ほら、この通り」
のそのそと動きながら背中のとげをゆらゆらゆらしていたウィワクシアでさえ
今まで見せた事のないような俊敏な動きを見せて岩場の影で縮こまっていたのだった
他の生物も同様に縮こまっているもの
触手をひっこめたもの 身体から棘を突きだして硬直したもの
ただサンクタカリスだけは変わらず海底を我がもの顔してゆっくりを歩を進めているのだった
重そうな甲羅を背負ってのそのそと、どこか誇らしげですらあったのだった
「まあ…よっぽど恐ろしいものだったってことぐらいかな。分かるのは」
「あなたにとって人間とは恐ろしいものですか?」
「…それは分からない。分からないけど
一つだけ言える事がある
人間はあの子を泡にしてしまうくらい、魅力的だったってことかな」
「私はそれがとても恐ろしいのです。
…私は止める事が出来なかったから」
「…そうか、君はあの子と知り合いだったんだね」
「…姉でしたから」
「そうか、辛かったね」
「私はまだ小さかったから上のお姉さま達と…お姉さまが喋っているのをただ見ていただけでした。今ではその話をすることも禁じられているのです」
「…仕方ないよ。いや、無理もない
あんなこと言うのも選ばせるのも、残酷で
誰も報われやしない…忘れるので精一杯だったろう」
「だからこそ私はこの目で確かめてみたいのです
…同じではないかもしれないけど、人間を」
「…そこまでの覚悟があるのなら。言う事は何もないね。
ただ一つだけ守って欲しいのは…」
「けして言葉を交わしてはいけない」
「そう、ただそれだけ」
たとえ言われずとも人間と喋る事はなかっただろう
もし喋ってしまえば、失ったものが現実性を帯びて
心を震わせ、悲しみが洪水となって溢れ出てくるのだ
それでも確かめたい事があるのだ
だから
ゆっくりと上昇して、水面へ
ごぼごぼと溢れる気泡がぶつかって、はじけ飛んで
またぶつかって
ただそれだけを頼りに水面へ